安倍元首相銃撃事件で「陰謀論」が過熱する理由:事件の特異性、裁判の焦点、そして社会心理

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1. はじめに:なぜ「陰謀論」は消えないのか?

2022年7月に発生した安倍晋三元首相銃撃事件は、戦後日本の歴史において極めて特異な事件として記録されました。そして、2025年10月28日に奈良地裁で始まった裁判員裁判の初公判において、殺人罪などに問われた山上徹也被告は、罪状認否で「私がしたことに間違いありません」と述べ、犯行を認めました[1]。

しかし、被告自身が犯行を認めているにもかかわらず、インターネット上のSNSでは「被告が撃ったのは空砲」「真犯人は別にいる」といった、事件の公式見解を否定する陰謀論が依然として過熱しています。この現象は、単なるデマの拡散という範疇を超え、現代社会が抱える根深い不信や心理的な欲求を映し出していると言えます。

本記事は、事件の事実関係と裁判の最新の焦点を確認しつつ、なぜこれほどまでに陰謀論が広がり、人々の心を捉えて離さないのかを、社会心理学的・メディア論的な視点から深掘りし、情報リテラシーの重要性を考察します。

2. 裁判で明らかになった「事件の核心」と検察の立証

山上被告の裁判は、事件の真相を法的に確定させ、陰謀論に歯止めをかける重要な役割を担っています。検察側は冒頭陳述で、犯行に至るまでの経緯と動機について、詳細な事実を立証すると明らかにしました。

2.1. 山上被告の動機と犯行の経緯

検察側の冒頭陳述によれば、山上被告の動機は、母親が旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に高額な献金を行い、家庭が崩壊したことに対する、教団への強い恨みにあります。

山上被告は、大学進学を諦めざるを得なくなり、職を転々とする中で、次第に「人生が思い描いたようにいかないのは母が入信したせいだ」と考えるようになった。当初は教団の最高幹部を襲撃する計画を立てていたが、計画の断念を経て、「首相経験者で有名な安倍氏を襲撃すれば社会の注目が集まり、教団への批判が高まる」と目標を変更した[1]。

この供述は、事件の背景に特定の宗教団体と政治家の関係という、極めて社会性の高い問題が横たわっていることを示しています。

2.2. 司法解剖医の証言と「矛盾はない」という結論

陰謀論が最も強く主張する「真犯人説」や「空砲説」を打ち消すため、検察側は緻密な立証を行っています。特に注目されたのは、第3回公判における安倍氏の遺体を司法解剖した医師の証人尋問です。

医師は、安倍氏の死因が左上腕から体内に入った弾丸が鎖骨付近の動脈を損傷したことによる失血死であると証言しました。そして、山上被告が撃った弾丸で安倍氏が死亡したことに「矛盾はない」と結論づけています[2]。

陰謀論者が「不可解な点」として指摘する、致命弾が体内から見つかっていない点についても、医師は「救急手当ての際、胸の中の血を吸引する時に弾丸も一緒に吸引されたとしか思いつかない」と説明しました。検察関係者も、この丁寧な立証は「陰謀論を意識しているわけではないが、裁判員、ひいては世間に対し、事件の実相を明確にする」意図があると述べており、司法の場で事実を確定させることの重要性が示されています[3]。

3. SNSで拡散される「陰謀論」の具体的な内容と構造

山上被告の自白や科学的な証拠が示されてもなお、陰謀論が消えないのはなぜでしょうか。その背景には、事件の映像や初期報道の「空白」を独自の解釈で埋めようとする、具体的な主張が存在します。

3.1. 主な陰謀論の主張

SNS上で拡散されている主な陰謀論は、以下の2点に集約されます。

陰謀論の名称主張の概要陰謀論者が指摘する「根拠」
空砲説山上被告が使用した手製銃は殺傷能力がなく、安倍氏を殺害したのは別の第三者である。銃撃時の煙や音の大きさ、安倍氏が倒れるまでの時間差、現場の映像における不自然な動き。
真犯人説実際には、遠方からスナイパーが狙撃した。山上被告は、事件の真相を隠蔽するための「スケープゴート」である。司法解剖の結果と初期の救命医の会見内容の食い違い、致命弾が体内から発見されていない点、現場警備の不自然さ。

これらの主張は、公式情報におけるわずかな「食い違い」や「未解明な点」を拡大解釈し、「背後に巨大な力が働いている」という物語に結びつける構造を持っています。

4. なぜ「陰謀論」は過熱し、人々の心を捉えるのか?

陰謀論が過熱する現象は、事件の特異性だけでなく、現代社会の構造的な問題と、人間の普遍的な心理的欲求が複雑に絡み合って生じています。

4.1. 事件の「特異性」がもたらす情報への空白

安倍元首相の銃撃事件は、最高権力者であった人物が白昼堂々、手製の銃で暗殺されたという、戦後史上類を見ない事件です。このような巨大で衝撃的な事件は、人々の心に大きな動揺と「なぜ?」という問いを残します。

また、事件の背景に旧統一教会という社会問題が絡み、さらに山上被告の複雑な生い立ちや動機が加わることで、事件全体が極めて多層的で理解しにくいものとなりました。複雑な事象を単純な「善悪」や「陰謀」の構図で理解しようとする心理が働きやすい土壌が形成されたと言えます。

4.2. 認知バイアスと「コントロール欲求」

陰謀論を信じる心理の根底には、コントロール欲求が関係していると指摘されています。世界が複雑で不確実であると感じる時、人々は不安を覚えます。陰謀論は、この複雑な世界に「実はすべては少数のエリートによって秘密裏にコントロールされている」という、単純で明確な説明を提供します。

この「裏の真実」を知ることで、「自分は世界を理解している」という感覚、すなわちコントロール感を取り戻し、不安を解消しようとするのです。また、「自分だけが真実を知っている」という優越感や、同じ意見を持つコミュニティへの帰属意識も、陰謀論への傾倒を強める要因となります。

4.3. 権威・メディアへの「不信感」の増幅

陰謀論が広がる最大の社会的要因は、政府、警察、そして大手メディアといった権威ある情報源への不信感の蔓延です。

特に、事件の背景にある旧統一教会と政治家の関係について、事件以前からメディアが十分な報道をしてこなかったという経緯が、人々の不信感を増幅させました。公式情報が「何かを隠しているのではないか」という疑念が生まれると、公式情報とは異なる「裏情報」の方が、かえって真実味を帯びて見えてしまうという逆転現象が起こります。

5. 陰謀論を拡散させる「SNSのメカニズム」

現代において、陰謀論の拡散はSNSというプラットフォームの特性と不可分です。SNSは、陰謀論が持つ強い感情的な訴求力と結びつき、驚異的な速度で広がるメカニズムを提供しています。

5.1. エコーチェンバーとフィルターバブル

SNSのアルゴリズムは、ユーザーの興味や過去の行動に基づいて、好むであろう情報を優先的に表示します。これにより、同じ意見を持つ人々が互いの意見を増幅し合うエコーチェンバー現象や、自分と異なる意見が遮断されるフィルターバブルが発生します。

陰謀論を信じる人々は、この閉鎖的な空間の中で、反証情報に触れることなく、自分たちの信念を強化し続けます。結果として、陰謀論はコミュニティ内で「常識」となり、外部からの批判を一切受け付けない強固な構造を作り上げてしまうのです。

5.2. 感情的なコンテンツの優位性

陰謀論は、しばしば「怒り」「恐怖」「義憤」といった強い感情を伴います。心理学の研究によれば、感情的なコンテンツは、中立的な情報よりも圧倒的にシェアされやすい傾向があります。

「衝撃の真実」「政府の隠蔽」といった物語性は、人々の好奇心と正義感を刺激し、「この情報を広めなければならない」という衝動を生み出します。この物語性感情的な訴求力が、SNS上での拡散力を高める最大の要因となっています。

6. 陰謀論とどう向き合うべきか:リテラシーと社会の役割

陰謀論の過熱は、現代社会の病理とも言えます。これに歯止めをかけ、健全な情報環境を取り戻すためには、個人と社会の両面からの取り組みが不可欠です。

6.1. 裁判の役割と「事実の確定」

裁判は、感情や憶測ではなく、証拠に基づいて事件の真相を法的に確定させる、民主主義社会における最後の砦です。検察が陰謀論を意識した丁寧な立証を重ねているのは、単に被告の罪を問うだけでなく、公的な事実を社会に提示し、混乱を収束させるという重要な役割を担っているからです。

私たちは、裁判の進行とそこで示される証拠に注目し、司法の場で確定される事実を重く受け止める必要があります。

6.2. 求められる情報リテラシーの強化

個人に求められるのは、情報リテラシーの強化です。

情報リテラシーの基本原則実践すべき行動
情報源の確認誰が、どのような目的で発信しているのかを常に確認する。匿名アカウントや出所の不明な情報は鵜呑みにしない。
複数ソースによる検証一つの情報源だけでなく、信頼できる複数のメディアや専門家の見解をクロスチェックする。
感情と論理の分離強い感情を刺激する情報ほど、一度立ち止まり、感情ではなく論理的な証拠に基づいて判断する。
「空白」の認識未解明な点や「空白」があることを認め、それを安易な陰謀論で埋めようとしない。

6.3. 信頼回復に向けた社会の役割

陰謀論の温床となっているのは、権威やメディアへの不信感です。この不信感を解消するためには、公的機関やメディアが、事件の背景にある社会問題を含め、透明性誠実さをもって情報発信を続けることが不可欠です。

特に、複雑な事件や社会問題について、専門家が分かりやすく、かつ丁寧に解説することで、人々の「空白」を埋め、陰謀論が入り込む隙をなくす努力が求められます。

7. まとめ:感情ではなく、事実に基づいて事件を見つめ直す

安倍元首相銃撃事件を巡る陰謀論の過熱は、事件の特異性、現代のSNS環境、そして人々の根深い不信感が複合的に作用した結果です。山上被告が「私がしたことに間違いありません」と述べた事実は、裁判という公的な場で揺るぎなく確定されつつあります。

私たちは、感情的な物語や安易な「裏の真実」に流されることなく、裁判で示される事実と、その背景にある社会構造に目を向ける必要があります。陰謀論を乗り越えることは、事件の真相を正しく理解するだけでなく、現代社会の健全な情報環境を築くための、重要な一歩となるでしょう。


参考文献

[1] デイリー新潮. 「安倍元首相」銃撃事件で“陰謀論”が過熱する理由…山上被告が「私がしたことに間違いありません」と述べても…SNSでは「被告が撃ったのは空砲」「真犯人は別にいる」 (2025年11月4日配信). https://news.yahoo.co.jp/articles/229364d042bf73ea2438f71b6e358421a955541a
[2] 読売新聞オンライン. 4カ所の銃創、山上被告の発砲と「矛盾しない」…解剖医が証言 (2025年10月31日配信). https://www.sankei.com/article/20251031-UOFKGDHXXJPOLIBBWSB2YLCNVA/
[3] 朝日新聞. 弾丸の軌跡、撃ちおろす形の理由を立証 「陰謀論を意識、でなく … (2025年10月30日配信). https://www.asahi.com/articles/ASTBZ2VD6TBZPTIL004M.html
[4] dot.asahi. なぜ? 安倍元首相銃撃に「スナイパーの仕業」「やらせ … 陰謀論が渦巻く理由 (2023年7月11日配信). https://dot.asahi.com/articles/-/195744?page=1
[5] 読売新聞. 安倍氏銃撃「真犯人は別にいる」…ネットでいまだくすぶる陰謀論 (2023年5月3日配信). https://www.yomiuri.co.jp/national/20230503-OYT1T50069/2/
[6] 現代ビジネス. 安倍元総理銃撃事件から1年……「陰謀論」の拡大が止まらない「ヤバすぎる理由」 (2023年8月8日配信). https://gendai.media/articles/-/114190