徳島市国府町、かつての阿波国府のほど近くに鎮座する天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)。江戸時代には「杉尾大明神(すぎおだいみょうじん)」の名で親しまれたこの社には、平安時代の『延喜式神名帳』に名神大社として列し…
徳島市国府町、かつての阿波国府のほど近くに鎮座する天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)。江戸時代には「杉尾大明神(すぎおだいみょうじん)」の名で親しまれたこの社には、平安時代の『延喜式神名帳』に名神大社として列し、阿波国で最高の神階「正四位上」を授かったという輝かしい記録があります。しかしその一方で、社に伝わる『八倉比売大神御本記』をめぐっては、「偽書である」「中世に衰退して所在不明となった社である」「杉尾大明神は江戸時代の流行神にすぎない」といった厳しい批判が長年投げかけられてきました。とりわけ1980年代の「邪馬台国阿波説」ブームの際には、新聞紙上で連載という形で激しい否定論が展開され、神社の歴史的正統性そのものが問われる事態となりました。果たして、その批判は本当に正しかったのでしょうか。本記事では、『六国史』の記録、発掘された矢野銅鐸、国学者・千家信延の『杉山の記』などの一次史料を丁寧にひもときながら、4つの否定論に対する反論を整理し、御本記が語る「天照大神葬儀伝承」の真実に迫ります。
- なぜ天石門別八倉比売神社は批判されたのか?1980年代「邪馬台国阿波説」論争と4つの否定論
- 【反論①】中世衰退・所在不明説を覆す『六国史』阿波最多5回登場と延久二年『太政官符』
- 【反論②】「杉尾大明神=新顔の流行神説」の誤謬|承平6年(936年)紀州勧請記録と宝暦棟札の物証
- 【反論③】現地を踏査しなかった批判者の盲点と、永禄2年(1559年)から続く神職・富崎家の系譜
- 【反論④】『八倉比売大神御本記』は偽書ではない!国学者・千家信延『杉山の記』が示す「天照大神葬儀伝承」の古層
- 古墳を拝む神社の起源とは?伊弉諾神宮との共通構造と1993年「矢野銅鐸」7本柱跡が語る弥生祭祀
- 結論:『御本記』の「水ノ青珠ノ印璽(印璽乃峯)」と阿波国府に眠る天照大神神陵の真実
- 天石門別八倉比売神社・御本記に関するよくある質問(FAQ)
- 参考・出典
なぜ天石門別八倉比売神社は批判されたのか?1980年代「邪馬台国阿波説」論争と4つの否定論
1980年代初頭、日本の古代史界は「邪馬台国論争」の真っ只中にありました。九州説と近畿(大和)説が激しくぶつかり合うなか、マスコミや在野の研究者の間から「邪馬台国は阿波(徳島)にあった」という第三の説がにわかに脚光を浴びます。その阿波説の最大の根拠として注目されたのが、徳島市国府町の天石門別八倉比売神社と、そこに伝わる『八倉比売大神御本記』でした。御本記には、祭神である大日孁女命(おおひるめのみこと)――すなわち天照大神――の「葬儀」に関する詳細な記述が含まれており、「天照大神の墓(神陵)が阿波国府の地に存在する」という、学会の常識を根底から覆しかねない内容が記されていたのです。
この動きに待ったをかけたのが、1982年、当時の国立大学の教授であった城福勇氏による地方紙での新聞連載でした。城福氏は連載の中で、阿波説の根拠となる天石門別八倉比売神社の歴史性を正面から否定し、その論旨は大きく4つの論点に集約されます。
- 中世衰退・所在不明説――式内社・天石門別八倉比売神社は中世に衰退して所在がわからなくなっており、現在の杉尾神社(杉尾大明神)とは無関係である。
- 杉尾大明神=新顔の流行神説――杉尾大明神という神名は中世以降に全国へ広まった「流行神(はやりがみ)」の一種にすぎず、古代の式内社とはつながらない。
- 神職家系の断絶説――現宮司家は近世になって外部から入った新しい家系であり、古代からの祭祀の継続性は証明できない。
- 御本記偽書説――『八倉比売大神御本記』は江戸時代に作られた偽書であり、史料価値はない。
一見すると、大学教授による学術的権威を背景にしたこの批判は決定的に思えます。しかし、史料を一つひとつ検証していくと、これらの否定論の多くは「一次史料の不十分な渉猟」と「現地踏査の欠如」に由来する誤解であったことが浮かび上がってきます。以下、4つの反論を順に見ていきましょう。
【反論①】中世衰退・所在不明説を覆す『六国史』阿波最多5回登場と延久二年『太政官符』
批判論の第一の柱は「式内社・天石門別八倉比売神社は中世に衰退し、所在不明となった」というものです。確かに、『延喜式神名帳』に記載されながら後世に比定地が論じられる神社は全国に少なくありません。しかし、天石門別八倉比売神については、勅撰の正史である『六国史』に、実に5回もの記事が残されています。これは阿波国内の神社としては最多の登場回数であり、阿波忌部の祖神を祀る忌部神社や、阿波一宮として名高い大麻比古神社の4回をも上回る数字です。
その皮切りとなるのが、『続日本後記』巻第十に見える承和8年(841年)の記事です。ここには「阿波国正八位・天石門和氣八倉比咩神に従五位下を授く」とあり、六国史上、阿波国の神社として最初の昇叙記録となっています。その後も神階は着実に累進し、延喜5年(905年)前後に編纂が進められた『延喜式』神名帳においては「名神大社」に列し、神階は「正四位上」――すなわち延喜年間の時点で阿波国最高の神階を保持していたことが確認できます。国家の正史がこれほど頻繁に、しかも最高位の神階をもって記録した神が、平安末期以降に「忽然と姿を消した」と考える方が不自然ではないでしょうか。
さらに決定的なのが、延久2年(1070年)の『太政官符』の存在です。太政官符とは、律令国家の最高機関である太政官が発した命令文書であり、この文書の中で天石門別八倉比売神は「国家の大典」に関わる神として言及されています。国家の根本儀礼に関与する格式を平安後期まで維持していたということは、当社が単なる地方の小社ではなく、朝廷儀礼と直結する国家的な神社として機能し続けていたことの証左です。「中世に衰退して所在不明」という批判は、これらの正史記録を直視していないがゆえの誤断と言わざるを得ません。
『続日本後記』承和8年の条――阿波国正八位 天石門和氣八倉比咩神、従五位下を授く(阿波国の神社として六国史初の昇叙記録)
そして地理的にも、現在の天石門別八倉比売神社は徳島市国府町――まさに古代の阿波国府の中枢地域に鎮座しています。六国史に5回登場する阿波最高位の神が、国府の地に今も鎮座し続けている。この単純かつ重い事実こそが、所在不明説への最も強力な反証なのです。
【反論②】「杉尾大明神=新顔の流行神説」の誤謬|承平6年(936年)紀州勧請記録と宝暦棟札の物証
第二の批判は、「杉尾大明神」という呼称が中世以降に流行した新しい神名であり、古代の式内社とは別物だというものです。たしかに「杉尾(杉翁)」の尊称を持つ神社は徳島県内だけでも30社から42社にのぼるとされ、その多くが杉の巨木をご神木とする信仰に由来すると考えられています。この事実だけを切り取れば、「杉尾大明神はありふれた流行神の一つ」という批判にも一理あるように見えます。
しかし、名西郡矢野村(現・徳島市国府町)の杉尾神社――すなわち天石門別八倉比売神社――については、単なる「流行」の枠では説明できない具体的な勧請記録が残っています。それが承平6年(936年)、中尾藤九郎宗久・藤十郎の兄弟によって紀伊国有田郡(現・和歌山県)へ分霊が勧請されたという記録です。承平6年といえば平安時代中期、『延喜式』の撰進(927年)からわずか9年後のことです。式内社として登載された直後の時点で、すでに他国へ分霊が勧請されるほどの信仰力を持っていたという事実は、この社の信仰が「中世以降に新しく現れた流行神」ではあり得ないことを物語っています。流行神は信仰の広がりとともに各地へ勧請されますが、その「元宮」が平安中期の記録にまで遡れるケースは極めて稀です。
さらに、神社には目に見える「物証」も連綿と残されています。宝暦年間の棟札をはじめ、1749年(寛延2年)の石灯籠、1752年(宝暦2年)の棟札、1774年(安永3年)の神鏡銘文――これらの金石文・銘文資料は、少なくとも江戸時代中期以前から、この地で「杉尾大明神」への篤い奉納と祭祀が継続していたことを明確に示しています。文字記録は後世に潤色される可能性を指摘できても、石に刻まれた年紀と奉納者名は覆しようのない一次資料です。「新顔の流行神」にすぎない社に、これほど層の厚い奉納遺物が残るでしょうか。
つまり批判派は、「杉尾」という名の広がりという「量」の問題と、当社の由緒の深さという「質」の問題を混同していたのです。県内に多数存在する杉尾神社の中にあって、平安中期の勧請記録と江戸期の金石文を重層的に備える当社は、明らかに別格の存在なのです。
【反論③】現地を踏査しなかった批判者の盲点と、永禄2年(1559年)から続く神職・富崎家の系譜
第三の批判は、現在の神職家系が古代からの連続性を持たないというものでした。しかしここにこそ、批判者たちの最大の盲点が潜んでいます。1982年の新聞連載で否定論を展開した城福氏をはじめとする批判派の面々は、一度も天石門別八倉比売神社の現地を訪れ、社宝や社家に伝わる文書群を実見していなかったのです。新聞紙上での議論は、机上の文献批判に終始していました。
現地を踏査していれば、批判者たちは富崎家の系譜に行き当たったはずです。当社の神職を務める富崎氏は、永禄2年(1559年)、京都の吉田家――室町・戦国時代を通じて全国の神社の神階・社格の認定権を握り、「吉田兼倶」以来の神道界の宗家――から派遣された人物に始まると伝えられます。戦国の乱世のさなか、吉田神社の神道裁許の権威を背景に阿波へ下向し、以来460年以上にわたって祭祀を継承してきたという系譜は、当社が近世に入って「どこかの誰とも知れない新しい宮司に乗っ取られた」社ではないことを示しています。むしろ逆に、衰微した地方社にこそ吉田家は縄張りを広げようとした歴史があり、名門・吉田家がわざわざ人を派遣したという事実自体が、当時の杉尾大明神が持つ格式の高さを間接的に証明しているとも読めます。
そして現在、その祭祀の灯は五藤尚豊宮司へと受け継がれています。社殿の奥には外部者の立ち入りが制限された奥の院があり、五角形の古い塚――古墳と目される聖域――を拝むという、全国的にも珍しい祭祀形態が今日まで護られています。文書の年表だけを眺めて「系譜は断絶した」と断じるのではなく、現地に足を運び、今も生きている祭祀の姿に接すること。歴史検証の基本を怠った批判が、どれほど実像から遠いかは明白でしょう。
【反論④】『八倉比売大神御本記』は偽書ではない!国学者・千家信延『杉山の記』が示す「天照大神葬儀伝承」の古層
そして論争の核心が、第四の批判――『八倉比売大神御本記』偽書説です。御本記には、紀元前1513年(社伝による年代)に大日孁女命が気延嶺(けのぶねのみね)に鎮座し、推古天皇元年(592年・社伝ではこの年前後)に杉の小山へ奉遷されたという由緒、そして驚くべきことに、天照大神の「葬儀」の次第が詳細に記されています。天照大神は伊勢に鎮まり今もご存命の神――これが近代以降の公式の神話理解です。その大神の「埋葬」が阿波で行われたという記述は、あまりに異質であり、だからこそ「江戸時代の創作=偽書」の烙印を押されてきました。
ところが、この偽書説を根本から揺るがす史料が存在します。天保2年(1831年)にまとめられた国学者・千家信延の『杉山の記』(『杉の小山の記』)です。千家信延は本居宣長の学統を継ぐ国学者であり、この書は宣長の養子で紀州藩の国学振興に尽力した本居大平(もといおおひら)が天保2年4月に書写した記録とともに伝わっています。鈴屋学派の正統を担う国学者たちが、当社の社家に伝来した古い記録を基に、古代の書記法に則って正字と真仮字を交えて書き改めた――これが『杉山の記』の成立経緯です。
ここで注目すべきは、千家信延が御本記の記述に示した「苦肉の曲解」です。信延は、伝来記録に明記されていた大神の「埋葬」の記述を、当時の国学・神道の常識――天照大神は永生の神である――と整合させるため、「埋葬」ではなく「御霊代(みたましろ)を埋めたのである」という解釈へと転換させました。ここに決定的な意味があります。もし御本記が江戸時代に新たに書かれた「創作=偽書」であれば、著者は最初から国学の常識に沿った「御霊代」の記述を書けばよかったはずです。わざわざ常識に抵触する「埋葬」という語を書き込む理由がありません。信延が「曲解」せざるを得なかったという事実こそが、彼の手元に、彼の時代の常識では制御できない古い本文――すなわち近世の創作では説明できない「古層の伝承」――が実在したことの何よりの証拠なのです。偽書とは、作り手の時代の思想の反映です。時代の常識に抗う記述を含む文書は、少なくとも「その時代の創作」ではあり得ない。これが御本記の非・偽書性を論証する第一のロジックです。
さらに御本記の叙述は、単純な潤色創作にありがちな年代の辻褄合わせの甘さを持ちながらも、気延嶺への鎮座(紀元前1513年)、2105年の歳月を経た推古元年の杉の小山奉遷、毛原美曽持(けはらのみそもち)への託宣による遷座の経緯など、人物名・地名・日付(九月十三日)が具体的に連鎖しています。推古元年の託宣は「気延山山頂は高く険しく参拝が困難、杉の小山は高からず低からず遠からず近からず、まことに善い地」という、きわめて現実的な参詣動線の記述を含んでおり、空想の産物というより、長い歳月のなかで実際の祭祀の変遷を内側から記録した文書の相貌を呈しているのです。
古墳を拝む神社の起源とは?伊弉諾神宮との共通構造と1993年「矢野銅鐸」7本柱跡が語る弥生祭祀
天石門別八倉比売神社のもう一つの大きな特徴が、「社殿の背後にある古墳(五角形の塚)そのものを御神体・奥の院として拝む」という構造です。現代の神社建築の常識では、拝殿・本殿という建築が祭祀の中心ですが、当社では本殿の奥の聖域に塚が控え、祭祀の最終的な向かい先は「塚」にあります。この形態は孤立した奇習ではありません。淡路島の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)もまた、伊弉諾尊の陵と伝わる墳墓を背景に、古墳的聖域を拝する構造を持ちます。また、阿波の地に目を転じれば、高越山(たかごえやま)をはじめ、山頂や丘陵の塚・磐座を直接の信仰対象とする古層の祭祀が複数確認できます。古墳を拝む神社――それは「神社建築以前」の祭祀の姿、すなわち神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰に連なる、日本の祭祀の原風景の生き残りと考えられるのです。
この「古層」の実在を、考古学が決定的に裏づけることになります。平成の初め、徳島南環状道路の建設に伴う発掘調査で、神社のすぐ近くに広がる矢野遺跡から「矢野銅鐸」が出土しました。発見は1992年12月18日、発掘と埋納状況の全容が明らかになったのは1993年(平成5年)前後の調査を経てのことで、1995年には国の重要文化財(考古資料)に指定されています。出土した銅鐸は、鰭の部分を太い線で飾る突線袈裟襷文(とっせんけさだすきもん)式――弥生時代後期の最新型式に属する優品でした。そして何より重要なのは、その埋納状況です。銅鐸は木製の容器に納められて土坑に埋められており、その周囲からは7本の柱穴が確認されました。
7本の柱穴――これは、銅鐸の埋納坑の上に「覆屋(おおいや)」と呼ばれる小さな建物が建てられていたことを示唆します。埋められた祭器の上に建物を建てて護り、祀る。この構造は、まさに「塚の上に社を建てて拝む」という古墳祭祀の原型、言い換えれば「神社建築の起源形態」そのものです。従来の神社建築史の定説では、銅鐸は「埋めて隠す」ものとされ、神社建築の成立はずっと後代の出来事と考えられてきました。しかし矢野の7本柱跡は、弥生時代の阿波国府の地において、すでに「祭器を埋納し、その上に建物を構えて祭祀を続ける」という、神社に直結する祭祀行為が行われていたことを示したのです。定説を覆すこの発見は、天石門別八倉比売神社の「古墳を拝む」構造が、決して後世の付会ではなく、この土地の弥生祭祀の記憶を継ぐものである可能性を、考古学的に照らし出しました。西日本最大級の縄文集落と徳島県最大級の弥生集落を擁する矢野の地――その集落の一角で、弥生人は銅鐸を埋め、柱を立て、祈り続けていたのです。
結論:『御本記』の「水ノ青珠ノ印璽(印璽乃峯)」と阿波国府に眠る天照大神神陵の真実
ここまで見てきたように、1980年代の批判論の四つの柱は、いずれも一次史料と現地の事実の前に大きく揺らいでいます。『六国史』5回登場・阿波最高神階の記録、延久2年の太政官符、承平6年の紀州勧請、宝暦の棟札と石灯籠、永禄2年からの富崎家の系譜、千家信延の「苦肉の曲解」が証明する御本記の古層、そして矢野銅鐸の7本柱跡――これらはバラバラの断片ではなく、一つの方向を指しています。それは、「阿波国府の地に、古代国家の中枢と直結する祭祀が、途切れることなく継承されてきた」という歴史の実像です。
御本記はさらに、「水ノ青珠ノ印璽(みずのあおだまのいんじ)」――天より持ち降った神のしるしの印璽――を深く埋めた場所を「印璽乃峯(いんじのみね)」(あるいは御石の峯)と称し、特別の地として秘して祀ってきたと伝えます。朱を帯びた土とともに現れたという印璽の伝承は、矢野遺跡の縄文層で確認された朱の精製という考古学的な事実とも、奇妙な響き合いを見せます。天照大神の神陵、葬儀の次第、印璽の秘祀。これらが歴史学の枠組みで全面的に「史実」と立証される日は来るかもしれませんし、来ないかもしれません。しかし少なくとも言えることは、これらの伝承を「江戸時代の作り話」と一笑に付すことは、史料が示す事実の重みに背を向ける態度だということです。
批判者が新聞の紙面で切り捨てたものは、1400年以上にわたって人々が護り続けてきた祈りの現場でした。徳島を訪れる機会があれば、ぜひ国府町の地に足を運んでみてください。矢野の銅鐸が眠っていた大地の息づかいと、杉の小山に静かに佇む社の空気に触れたとき、「記録の正しさ」とは何か、「伝承の真実」とは何かという問いが、きっと新しい形で胸に浮かぶはずです。
天石門別八倉比売神社・御本記に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 『八倉比売大神御本記』は学術的に認められていますか?
A. 現時点では、学会の多数派は近世成立の社伝文書として慎重な扱いを維持しており、「史実の記録」として全面的に認められているわけではありません。ただし本記事で述べたように、千家信延が「埋葬」を「御霊代」へ曲解せざるを得なかった事実は、単純な江戸期創作説では説明できない古層の存在を示唆しており、「偽書」の一言で切り捨てることは史料学的にも不適切です。国書データベースにも所蔵記録が残る実在の文書として、今後の研究が待たれます。
Q2. 天照大神の墓が徳島にあるというのは本当ですか?
A. これは御本記に記された「社伝・伝承」であり、歴史学上の確定事実ではありません。公式の神話理解では天照大神は伊勢神宮に祀られる現御神です。ただ、全国には天照大神や大日孁女命にまつわる葬送・陵墓伝承が複数存在し、阿波の伝承もその一つとして、記紀神話とは別系統の古い記憶を保存している可能性が指摘されています。「伝承として知る」ことと「史実として断定する」ことは分けて考えるのが、このテーマと誠実に向き合う姿勢と言えるでしょう。
Q3. 矢野銅鐸はどこで見られますか?
A. 矢野銅鐸(突線袈裟襷文銅鐸)は、徳島市国府町の矢野遺跡から1992年に出土し、1995年に国の重要文化財に指定されました。出土遺物は徳島県立埋蔵文化財総合センターや、遺跡に隣接する徳島市立考古資料館で展示・公開されています。7本の柱穴が確認された埋納状況を含め、銅鐸研究史上きわめて貴重な資料として知られています。あわせて矢野遺跡は西日本最大級の縄文集落跡でもあり、土製仮面などの出土品も見どころです。
Q4. 天石門別八倉比売神社には参拝できますか?
A. はい、徳島市国府町西矢野に鎮座し、参拝が可能です。ただし本殿背後の奥の院(五角形の塚を拝する聖域)は立ち入りが制限されており、社号標や拝殿からの参拝となります。周辺には阿波国府跡や矢野遺跡、忌部文化ゆかりの社寺が点在していますので、阿波の古代史をめぐるフィールドワークの拠点としてもおすすめです。訪問の際は、静かに護られてきた聖域であることに敬意を払い、撮影や立ち入りのルールを守りましょう。
参考・出典
- 徳島県「レキシルとくしま」矢野遺跡(縄文・弥生時代)|https://www.pref.tokushima.lg.jp/sp/rekishiru/remains/5022970/
- 国指定文化財等データベース「突線袈裟襷文銅鐸」|https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/10123
- 里山倶楽部四国『杉の小山の記(天石門別八倉比賣大神御本記解説本)』|https://satoyama4.omiki.com/suginokoyama.html
- 国書データベース「天石門別八倉比賣神社本記」|https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100176720
- 古墳神社巡り「天石門別八倉比賣神」|https://kohun-jinjya.blog/amanoiwatoyakurahime/
- 阿波ナビ「邪馬台国は阿波だった!? 卑弥呼にまつわる徳島の地を巡る旅」|https://www.awanavi.jp/archives/topics/69263
- 阿波忌部会「忌部とは」|https://www.awainbe.jp/inbebunka/inbe/

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