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愛媛県今治市祇園町――立花・鳥生(とりう)エリアの穏やかな住宅街を抜け、蒼社川(そうじゃがわ)の下流域に近い一角へと足を踏み入れると、周囲の喧騒がふっと遠のく瞬間があります。そこに鎮座しているのが、地元の方々から「鳥生の宮(とりうのみや)」、そして親しみを込めて「祇園(ぎおん)さん」と二つの名で呼ばれ続ける古社、三嶋神社・祇園神社(鳥生三嶋神社)です。
今治といえば、日本総鎮守として名高い大三島の「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、今治平野の市街地側に目を向けると、大三島の神様と京都・八坂の疫病退散の神様がひとつの社殿に並び祀られ、さらに今治地方の春祭りを象徴する無形民俗文化財級のアクロバティックな伝統芸能「継ぎ獅子(つぎじし)発祥の地」として息づく、極めてユニークな聖域が存在します。それが今回現地を歩いて徹底取材した、今治市祇園町の三嶋神社・祇園神社です。
- 今治市「鳥生(とりう)の三嶋神社・祇園神社」とは?現地参拝で感じた境内の空気感と基本情報
- 【由緒書き全文解読】小千直益躬の鉄人討伐と清和天皇・貞観の祇園信仰の真実
- 写真で巡る境内徹底ガイド!石碑・荒神社・狛犬・古札納所まで現地ウォーク
- 三嶋神社と祇園神社、二柱の御祭神から授かる5大ご利益(御神徳)
- なぜここが「継ぎ獅子発祥の地」なのか?明治の偉人・高山重吉と今治春祭りの熱狂
- 年間祭礼カレンダー|5月の春祭り(例大祭)と7月の夏祭り(祇園祭)の見どころ
- 驚くほど広い!鳥生の三嶋・祇園神社が守護する「氏神地域」と歴史的ネットワーク
- 参拝前に知っておきたい実用ガイド|アクセス・駐車場・バリアフリー・御朱印マナー
- あわせて巡りたい!鳥生三嶋神社と深いつながりを持つ今治の歴史スポット3選
- 鳥生の三嶋神社・祇園神社に関するよくある質問(FAQ)
- まとめ:1400年の神話と「継ぎ獅子」の誇りが息づく今治・鳥生の聖域へ
今治市「鳥生(とりう)の三嶋神社・祇園神社」とは?現地参拝で感じた境内の空気感と基本情報
まず最初に押さえておきたいのが、この神社の少し珍しい「名前の成り立ち」です。地図アプリやカーナビで検索すると「三嶋神社」と表記されていることもあれば、「祇園神社」と記されていることもあり、地元今治の年配の方々に尋ねると「ああ、鳥生の祇園さんね」「鳥生の三嶋さんのことよ」と両方の呼び名が自然に返ってきます。
なぜ一つの境内に二つの大きな社名が並立しているのか。それは、飛鳥時代の崇峻天皇2年(589年)に創祀されたと伝わる古社「三嶋神社(鳥生の宮)」と、平安時代の貞観11年(869年)に疫病鎮護のために勧請された「祇園神社(旧社名:須賀神社)」が、長い歴史の変遷のなかで合祀され、共に地域を見守ってきたからです。

上の写真は、実際に拝殿の正面に立ったときの光景です。曇り空の柔らかな自然光のなか、綺麗に掃き清められた石段の先に、重厚な木造の拝殿が構えています。頭上には幾重にも縒り合わされた立派な注連縄(しめなわ)が張られ、真っ白な紙垂(しで)が潮風を含んだ今治の微風にわずかに揺れていました。
中央に据えられた木製の賽銭箱をよく観察すると、「賽銭」の二文字のあいだに、折敷(おしき)に三文字を配した大三島・大山祇神社系の神紋「折敷に縮み三文字(おしきにちぢみさんもじ)」が誇らしげに掲げられています。また、向かって右手の柱際には、昔ながらの木の温もりを感じる「おみくじ」箱が置かれており、ガラス格子の引き戸の奥には厳かな内陣の気配が漂っています。観光地化された神社のような派手な喧騒はなく、地域の氏子さんたちが毎朝夕に手を合わせに来る「生きた信仰の場」ならではの清浄な空気が、肌を通して伝わってきます。
三嶋神社・祇園神社(今治市祇園町)の基本データ一覧表
| 正式名称・通称 | 三嶋神社(みしまじんじゃ)・祇園神社(ぎおんじんじゃ) 別称:鳥生の宮(とりうのみや)、木の下三島宮、鳥生の祇園さん、旧称・須賀神社 |
|---|---|
| 鎮座地(住所) | 〒794-0083 愛媛県今治市祇園町1丁目1-63 |
| 主祭神 | 【三嶋神社】大山積命(おおやまつみのみこと)※配祀:上津姫命・下津姫命 【祇園神社】須佐之男命(すさのおのみこと/八坂大神) |
| 境内社(摂末社) | 荒神社(こうじんじゃ)、御鉾神社(おほこじんじゃ) |
| 主な御神徳(ご利益) | 厄除け、病気平癒・疫病消除、開運招福、子孫繁栄、家内安全、交通安全、商売繁盛、武運長久・勝負運 |
| 主な年間祭礼 | ・春の大祭(例大祭):毎年5月第2日曜日(継ぎ獅子・子供奴の奉納) ・夏祭り(祇園祭):旧暦6月14日頃(7月中旬〜下旬に開催・無病息災の夏越行事) |
| 特殊神事・文化財的価値 | 今治地方「継ぎ獅子(つぎじし)」発祥の地(明治初年、高山重吉氏により奉納・伝播) |
| 駐車場・バリアフリー | あり(境内駐車場 約5台分・無料)/社殿脇に参拝用スロープ完備 |
| 電話番号 | 0898-31-1742 |
【由緒書き全文解読】小千直益躬の鉄人討伐と清和天皇・貞観の祇園信仰の真実
境内に足を踏み入れてすぐ、緑豊かな木立の下に白い板面の立派な案内板(由緒書き)が建てられているのが目に入ります。冒頭で引用されていた文章が「清和天皇御宇、」で途切れていたのは、まさにこの由緒書きの核心部分へと続く入り口だったのです。現地で撮影した由緒板の写真とともに、その全文と歴史的背景を詳しく読み解いていきましょう。

境内の由緒板および愛媛県神社庁記録に伝わる全文ストーリー
現地の由緒板(上の写真)および神社庁の公式記録を照らし合わせると、「清和天皇御宇、」に続く由緒の全体像は以下の通りに記されています。
【三嶋神社・祇園神社 由緒(全文構成)】
三嶋神社は大三島にある大山祇神社の祭神を祀ったことにはじまり「鳥生(とりう)の宮」と称され、祭神 大山積大神は、天照大神の兄神で、第三十二代崇峻天皇、御宇二年(五八九年)に、この地方の豪族小千直益躬(おちあたいますみ)が、靺鞨(まかつ)の国より鉄人(強い武人)が八千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨の国で討ちとり、木の下の浜(今の鳥生の浜)へ凱旋した。自ら榊の大樹に鏡をかけて大山祇の大神を祀ったので、木の下三島宮と呼ばれていた。この木の枝に多数の白鳥が巣を作り、ひなを育てたので鳥生の宮と称し、地名も鳥生としたと伝えている。
祇園神社は、八坂大神(須佐之男命)を祀ったことにはじまる。
清和天皇御宇、貞観十一年(八六九年)に、全国に疫病が蔓延し、それを鎮めるために京都祇園の八坂神社にて、疫病の災厄除去を祈ったのが祇園祭の始まりで、これに習い全国に信仰が広まり、当社も八坂大神を同時期に奉斎したので、古くから鳥生の「祇園さん」とうやまわれ、病気平癒、疫病消除の神様として、現在も旧六月十四日の祇園祭には近郷からのたくさんの参拝者でにぎわっている。
「現在の社殿は平成十二年の式年祭にて造営」
「継ぎ獅子発祥の地」
今治地方の春を賑わす獅子舞「継ぎ獅子」 垂直に連なった人柱に獅子をかぶった子供が華麗に舞う立ち芸は、広く知られ子供奴と共に毎年観衆を沸かしている。明治の初年伊勢へ習い旅だった氏子の高山重吉氏によって奉納され、近郷の各方面に弟子達が出向き指導伝承し、各地に伝わった。
この由緒書きの前に立ち、一文字ずつ縦書きの墨字を追っていると、単なる「地域の鎮守さま」という枠を超えた、古代瀬戸内海のダイナミックな歴史ロマンが浮かび上がってきます。ここからは、この由緒に込められた3つの重要な歴史的トピックをさらに深掘りしてみましょう。
1. 豪族・小千直益躬(越智益躬)と「靺鞨国の鉄人」討伐伝説(589年)
まず注目すべきは、今から1430年以上も昔、飛鳥時代の崇峻天皇2年(589年)という具体的な年号が登場する点です。当時、伊予国(現在の愛媛県)の越智郡一帯を治め、強大な水軍力を持っていた古代豪族が小千直益躬(おちのあたいますみ/越智益躬)でした。彼はのちに伊予の河野水軍(河野氏)や稲ز(いなぜ)・越智一族の祖として崇められる伝説的英雄です。
伝承によれば、大陸北方の「靺鞨(まかつ)国」から、全身を鉄の鎧で固めた不死身の怪人「鉄人(てつじん)」が八千もの大軍(兵船百余艘とも伝わる)を率いて日本へ侵攻し、播磨国(現在の兵庫県南西部)に押し寄せました。朝廷から討伐の勅命を受けた小千直益躬は、一族の氏神である大三島の大山積大神(大山祇神)に必勝を祈願して出陣します。
どんな矢も刀も跳ね返す「鉄人」に対し、益躬は夢のお告げ(あるいは神の導き)によって「鉄人といえども足の裏(または眼・脇の下)だけは生身である」と見抜き、見事にこれを射抜いて討ち取りました。そして播磨の海から瀬戸内海を西へと渡り、故郷である今治の「木の下の浜(現在の鳥生の浜)」へと凱旋したのです。
浜辺に降り立った益躬は、無事に大役を果たせた神恩に深く感謝し、浜に生い茂っていた榊(さかき)の大樹の枝に自らの神鏡を懸けて、大三島の大山祇大神を遥拝・奉斎しました。これが「木の下三島宮(きのしたみしまぐう)」の起こりであり、鳥生三嶋神社の創祀と伝えられています。古代において、建物としての社殿が造られる以前の「神籬(ひもろぎ=依代となる常緑樹に鏡をかけて祀る原始神道のかたち)」の記憶が、これほど鮮明に由緒として残っているのは極めて貴重です。
2. 「鳥生(とりう)」という美しい地名のルーツになった白鳥伝説
今治市には現在も「北鳥生町」「南鳥生町」「東鳥生町」、そして「鳥生小学校」など、「鳥生(とりう)」という地名が広く使われています。初見では「とりう」と読むのが少し難しいこの地名ですが、その語源こそが、この三嶋神社にあるのです。
小千直益躬が鏡をかけて大山積大神を祀った榊の大樹には、やがて数多くの白鳥(しらとり)が飛来して枝に巣を作り、雛(ひな)を産み育てたといいます。古代日本において白鳥は、ヤマトタケル(日本武尊)の白鳥伝説にも見られる通り、神の使い(霊鳥)であり、魂や生命力を運ぶ瑞鳥(ずいちょう)とされていました。
神鏡が輝く大樹に白い鳥たちが集まり、新しい命が次々と生まれる光景――それを見た里人たちは畏敬の念を込めてこの社を「鳥生(とりう=鳥が生まれる・育つ)の宮」と称えるようになり、いつしかこの地域一帯の地名そのものが「鳥生」と呼ばれるようになったのです。現地を歩いていると、地名ひとつにも1400年前の風景が閉じ込められていることに気付かされ、普段何気なく通り過ぎる今治の街並みがまるで違って見えてきます。
3. 清和天皇・貞観11年(869年)の疫病鎮護と「鳥生の祇園さん」
そして、由緒書きの後半を飾るのが「祇園神社(旧社名:須賀神社)」の歴史です。時代は飛鳥から平安時代初期へと移り、第五十六代・清和天皇の御代である貞観11年(869年)のことでした。
この年、日本各地で激しい疫病が流行し、さらに東北地方では貞観地震(869年)が発生するなど、国中が未曾有の災厄に見舞われていました。都(平安京)では、当時の国の数になぞらえた66本の矛(ほこ)を立て、祇園社(現在の京都・八坂神社)の神である牛頭天王・八坂大神(須佐之男命)に疫病退散を祈る「御霊会(ごりょうえ)」が執り行われました。これが今日まで続く京都・祇園祭の起源です。
海上交通の要衝であった伊予国・今治の地もまた、都や大陸からの船が行き交う場所であるがゆえに、流行り病から無縁ではいられませんでした。そこで地域の先人たちは、京都の祇園信仰にならい、貞観11年とほぼ同時期に八坂大神(須佐之男命)をこの地に勧請して篤く祀ったのです。ちなみに、由緒板の写真(2枚目)を細かく読むと、祇園神社の見出しの横に「(旧社名 須賀神社)」と刻まれているのが分かります。明治時代の神仏分離令などの影響で一時「須賀神社」と称された時期がありながらも、地域の人々の間では一貫して「鳥生の祇園さん」と呼び親しまれ、令和の今日に至るまで1150年以上にわたって無病息災・疫病消除の祈りを集め続けています。
4. 旧鎮座地「新田字宮の本」からの遷座と合祀の歴史
さらに郷土史の記録を紐解くと、三嶋神社はもともと現在の鎮座地(今治市祇園町1丁目)から東へ約500メートルほど離れた場所(旧・新田字宮の本)に鎮座していました。そして現在の場所にもとから鎮座していた祇園神社(須賀神社)の境内へと三嶋神社が遷座・合祀されたことで、現在のように「一つの社殿に三嶋神社(大山積命)と祇園神社(須佐之男命)の二柱の大神が並び鎮まる」という形態が完成したのです。
町名が「祇園町」となっているのも、まさにこの祇園神社が地域の中心的なランドマークであった証です。そして近年では鎮座1150年の式年祭(貞観11年=869年からの節目)を迎え、平成12年(2000年)の拝殿改築に続いて本殿の改修工事なども氏子・崇敬者の奉賛によって立派に成し遂げられています。
写真で巡る境内徹底ガイド!石碑・荒神社・狛犬・古札納所まで現地ウォーク
ここからは、実際に境内をゆっくりと一周しながら撮影した写真をもとに、参拝した際にぜひ立ち止まって見てほしい見どころを順番にご案内します。ただ本殿に二礼二拍手一礼をして帰るだけではもったいないほど、境内には地域の歴史と信仰の厚みを感じさせる造形物が点在しています。
玉垣に囲まれた重厚な自然石の記念碑と社務所周辺の佇まい

由緒書きの近く、明るい外壁の社務所(参集殿)の脇に目を向けると、見事な枝ぶりの落葉樹の木陰に、黒々とした威容を誇る自然石の石碑が建っています(上の写真)。
周囲をぐるりと囲む石造りの低い玉垣(瑞垣)の親柱には、力強い彫りで「奉寄進」の文字が刻まれ、羽目石(パネル部分)には神紋が丁寧にレリーフされています。石碑本体には流麗な縦書きの揮毫(きごう)が彫り込まれており、時代ごとの式年祭や境内整備に際して、氏子たちがどれほど誇りを持ってこの社を護持してきたかが伝わってきます。雨上がりや曇天の日に訪れると、この黒曜石にも似た自然石の肌がしっとりと濡れ、彫り込まれた文字がいっそう立体的に浮かび上がって見えます。
圧倒的な存在感を放つ境内社「荒神社(こうじんじゃ)」の石鳥居と社殿
主社殿(三嶋神社・祇園神社)への参拝を終えたら、必ず足を運んでいただきたいのが、境内に鎮座する摂末社「荒神社(こうじんじゃ)」です。現地で実際にその前に立ったとき、主社殿とはまた異なる、古社ならではのピリッとした霊気に思わず背筋が伸びました。

上の写真をご覧ください。境内の一角に、独立した石造りの明神鳥居が構えられ、まっすぐなコンクリートの参道が奥の木造社殿へと続いています。鳥居の中央に掲げられた石の扁額(へんがく)には、端正な楷書体で「荒神社」の三文字。そして鳥居の柱をよく見ると、向かって右側の柱には「奉寄進」、左側の柱には「神寳前(しんぽうぜん/宝前)」という文字が深く刻み込まれています。鳥居の両脇にも古い石柱が対になって控え、ここが単なる小さな祠ではなく、独立した一つの信仰圏を持っていたことがうかがえます。
鳥居を一礼してくぐり、さらに近づいて撮影したのがこちらの1枚です。手前左側には、細い注連縄が巻かれた御影石の社号標が立ち、そこにもくっきりと「荒神社」の文字が刻まれています。
その奥に佇む荒神社の社殿は、いぶし銀の日本瓦を載せた切妻造り(妻入り)のお堂のような建築様式をしており、黒く風化した下見板張りの外壁が、幾十年、幾百年という風雪に耐えてきた時間を物語っています。軒下には真新しい注連縄と紙垂が飾られ、開け放たれた正面の扉の奥には、丸い神紋が入った木製の賽銭箱が静かに据えられていました。
瀬戸内地方、特に愛媛県東予(今治・西条・新居浜)や広島・岡山などの沿岸部では、古くから「荒神(こうじん)さん」への信仰が非常に篤いことで知られています。荒神様は、火と竈(かまど)の神様である三宝荒神(さんぼうこうじん)や、土地の荒ぶる霊威を鎮めて守護へと転じる地荒神(じこうじん)として祀られ、不浄や災厄を焼き尽くす強い浄化の力を持つとされています。家庭の火の用心や台所の安全、そして「ここ一番で邪気を断ち切りたい」という方は、本殿とあわせてこの荒神社にも丁寧に手を合わせるのがおすすめです。
なお、当社の境内社としては荒神社のほかに「御鉾神社(おほこじんじゃ)」も祀られています。貞観の祇園御霊会において疫病鎮護の象徴とされた「鉾(ほこ)」の信仰とも響き合う社名であり、境内全体が幾重もの厄除け・守護の結界で守られていることが実感できます。
境内側から振り返る大鳥居と、高い台座から街を見守る狛犬・石灯籠

参拝を済ませて拝殿前から表参道の入り口(鳥居側)を振り返ると、また違った風情のある景色が広がります(上の写真)。
手前左側には、参拝者が引いた白いおみくじが小枝にいくつも結ばれた境内の樹木が枝を伸ばし、右側には笠石の反りが美しい花崗岩(大島石や瀬戸内の御影石を思わせる質感)の常夜灯(石灯籠)がどっしりと構えています。そしてその先、石鳥居の手前両脇には、幾段にも積まれた高い石の台座の上に、阿吽(あうん)一対の狛犬(こまいぬ)が鎮座しています。
高い位置から参道を見下ろすように据えられた狛犬のシルエットは実に凛々しく、鳥居のすぐ向こう側に見える祇園町の住宅街や電線といった「日常の風景」と、鳥居の内側の「神域の静けさ」との境界線を鮮やかに際立たせています。春の大祭の日には、まさにこの鳥居をくぐって獅子舞や子供奴の行列が境内へと練り込んでくるのです。
赤レンガ造りの煙突が印象的な「お札納所(古札納所)」と蒼社川水系の風景

境内を散策していて、個人的に強く惹きつけられたスポットが、こちらの「お札納所(おふだおさめしょ)」です(上の写真)。
多くの神社では、古いお札やお守りを納める場所は簡易的な木箱やコンクリートの囲いになっていることが多いのですが、ここ鳥生の三嶋・祇園神社では、まるで近代建築の遺構のような味わい深い赤レンガ積みの炉と、空へ向かってまっすぐ伸びるレンガ造りの角煙突が現役で残されています。正面には白いプレートで「お札納所」と掲げられており、正月のお焚き上げ(どんど焼き・古神札焼納祭)などで一年間家庭を守り抜いた神札や破魔矢を浄火で天へと還す大切な設備となっています。
また、その手前を囲む石の玉垣に目を凝らすと、「金壹萬圓(金一万円)」といった旧字体の金額とともに、昭和期からの寄進者の名前がずらりと彫り込まれています。さらに背景の玉垣の向こう側には、水路(川)に架かる橋と豊かな緑、そして特徴的なドーム型の屋根を持つ建物が見渡せ、この神社が今治の水辺と生活圏にピタリと寄り添って存在していることがよく分かります。
紅葉の青葉に彩られた歌碑(句碑)と奉納芳名石垣

境内のもう一つの穏やかな一角には、柔らかな草木とモミジ(楓)の葉陰に抱かれるようにして、流麗な草書体で和歌(または俳句・献詠歌)が刻まれた自然石の碑が佇んでいます(上の写真)。
その背後には、「金拾万円」をはじめとする幾多の氏子・崇敬者の芳名を刻んだ横長の石垣が整然と組まれ、足元の白砂混じりの土の上には、境内の草木を潤すための緑色の散水ホースが丁寧に巻かれて置かれていました。こうした何気ない日常の手入れの跡にこそ、宮司さんや氏子総代の方々が日々この神域を大切に慈しんでいる様子が表れており、訪れる者の心をほっと和ませてくれます。
三嶋神社と祇園神社、二柱の御祭神から授かる5大ご利益(御神徳)
鳥生の三嶋神社・祇園神社が今治市内でも屈指の「全方位型パワースポット」といえる理由は、祀られている二柱の主祭神の性格が、互いを補い合うように完璧なバランスを保っている点にあります。それぞれの神様のプロフィールと、参拝することで授かれる具体的な御神徳(ご利益)を整理しておきましょう。
1. 大山積命(おおやまつみのみこと)|山の神・海の神・武運と産業の総鎮守
三嶋神社の主祭神である大山積命(大山祇大神)は、大三島の大山祇神社から勧請された神様であり、由緒書きにもある通り「天照大神(あまてらすおおみかみ)の兄神」とも伝えられる日本最高峰の古神です(『古事記』『日本書紀』では伊邪那岐命・伊邪那美命の間に生まれた山の神であり、木花之佐久夜毘売の父神)。
- 勝負運・仕事運・商売繁盛:小千直益躬が外敵「鉄人」を討ち取って凱旋し、神鏡を捧げた故事から、困難なプロジェクトの達成、試験合格、ビジネスでの勝利、商売繁盛に絶大なご利益があるとされています。
- 交通安全・航海安全:古代より瀬戸内海を渡る水軍や船乗りたちの守護神であったことから、現代では車やバイク、自転車の交通安全、旅行の無事を見守る神様として信仰されています。
- 子孫繁栄・家内安全:榊の大樹に白鳥が巣を作り、多くの雛を育てた「鳥生の宮」の伝承にちなみ、子宝・安産・子育て成就・家族円満の象徴としても篤く敬われています。
2. 須佐之男命(すさのおのみこと/八坂大神)|疫病退散・厄除け・開運招福の守護神
祇園神社の主祭神である須佐之男命(八坂大神)は、ヤマタノオロチ退治の神話で知られる勇猛果敢な神様であり、京都・八坂神社(祇園社)の御祭神です。なお、神話において須佐之男命がヤマタノオロチから救い出して妻とした櫛名田比売(クシナダヒメ)の両親(足名椎・手名椎)は、大山積命の子供(または眷属)とされており、実は大山積命と須佐之男命は非常に深い親族関係にある神様同士なのです。
- 病気平癒・疫病消除・無病息災:貞観11年(869年)の疫病流行を鎮めるために祀られた由緒そのままに、感染症や大病からの回復、家族の健康長寿を願う「鳥生の祇園さん」として、今治市民から絶大な信頼を集めています。
- 厄除け・災難除け・悪縁切り:須佐之男命の力強い神威と、境内社の荒神社の浄化力が合わさることで、人生の厄年(本厄・前厄・後厄)の災い払い、人間関係や環境における悪縁・邪気の祓い清めに強い霊験があるとされています。
なぜここが「継ぎ獅子発祥の地」なのか?明治の偉人・高山重吉と今治春祭りの熱狂
鳥生の三嶋神社・祇園神社を語るうえで絶対に外せないもう一つの顔が、由緒書きにも大きく記されている「継ぎ獅子(つぎじし)発祥の地」としての歴史です。
毎年5月になると、今治市内各地の神社では「春祭り(春の大祭)」が執り行われ、街中にお囃子の太鼓と笛の音が響き渡ります。その主役となるのが、愛媛県今治地方ならではの伝統芸能「継ぎ獅子」です。
人の肩の上に人が立つ!大迫力の立体アクロバット「継ぎ獅子」とは
一般的な獅子舞といえば、2人1組になって布の胴幕に入り、地面の上で舞う姿を想像するでしょう。しかし今治の「継ぎ獅子」は次元が違います。
屈強な大人の担ぎ手(土台)の肩の上に2人目が立ち、さらに3人目(三継ぎ)、時には4人目(四継ぎ)へと人間ピラミッドのように垂直に一直線に連なった「人柱」を作ります。そしてその最上段、地上数メートルの高さに立つ「獅子子(ししこ)」と呼ばれる小学生くらいの子どもが獅子頭をかぶり、太鼓と笛の軽快なリズムに合わせて、空中で反り返ったり扇を振ったりと華麗な立ち芸を披露するのです。
見上げる観衆が思わず息を呑むスリルと、最上段の子どもが恐怖心に打ち勝ってピタリと決める見事な舞い姿、そして一糸乱れぬ呼吸で支える大人たちの絆――まさに今治人の気質と心意気を結晶化させたような伝統芸能です。
明治初年、氏子・高山重吉氏が伊勢から持ち帰った芸のルーツ
では、なぜこの鳥生の三嶋神社が、今治じゅうに広がる継ぎ獅子の「発祥の地」なのでしょうか。
由緒によれば、時は明治の初年(明治元年〜初期)。この鳥生地区の氏子であった高山重吉(たかやま じゅうきち)氏という人物が、伊勢(現在の三重県・伊勢大神楽などの系統)へと旅立ち、現地で高度な曲芸を伴う獅子舞の技法を徹底的に習得して帰郷しました。
故郷に戻った高山重吉氏は、氏神であるこの鳥生の三嶋神社・祇園神社にその「継ぎ獅子」を初めて奉納しました。その圧倒的な迫力と美しさは瞬く間に今治近郷の評判となり、高山氏のもとで技を磨いた弟子たちが今治各地の村々・神社へと出向いて指導・伝承を行った結果、越智郡・今治地方一円の春祭りに「継ぎ獅子」が広まっていったのです。
つまり、現在今治市の多くの地区で誇りをもって演じられている継ぎ獅子も、その源流をたどればすべてこの鳥生の三嶋神社・祇園神社の境内から始まったということになります。普段は静まり返っている拝殿前の広場に立ち、「明治の初め、ここで高山重吉さんが初めて人柱の獅子を舞い上げたんだな」と想像すると、足元の地面から当時の歓声と太鼓の鼓動が湧き上がってくるような感動を覚えます。
年間祭礼カレンダー|5月の春祭り(例大祭)と7月の夏祭り(祇園祭)の見どころ
静かな平日に訪れてゆっくりと歴史に浸るのも素晴らしいですが、もし日程を合わせられるなら、年に2回ある大祭の日に訪れると、この神社の真のエネルギーを体感することができます。
1. 春の例大祭(毎年5月第2日曜日):本家本元の「継ぎ獅子」と「子供奴(やっこ)」
毎年5月の第2日曜日に斎行される春の例大祭は、三嶋神社(鳥生の宮)の最も華やかな一日です。この日は発祥の地である鳥生の獅子舞保存会による本家本元の「継ぎ獅子」が境内で奉納されるほか、化粧を施し華やかな衣装に身を包んだ地域の子どもたちによる「子供奴(こどもやっこ)」の行列や演舞が披露されます。
毛槍(けやり)や挟箱(はさみばこ)を持った子どもたちが独特の掛け声と所作で参道を練り歩く姿は愛らしくも勇壮で、世代を超えて地域の伝統が受け継がれている様子に胸が熱くなります。
2. 夏の祇園祭(旧暦6月14日頃/7月中旬〜下旬):無病息災を願う「鳥生の祇園さん」
もう一つの大きな祭礼が、旧暦6月14日(現在の新暦では7月中旬〜下旬頃)に開催される「祇園祭(夏祭り)」です。こちらは祇園神社(須佐之男命)の御神徳である疫病退散・無病息災を祈願する夏の風物詩で、地元では「祇園さんのお祭り」として親しまれています。
厳しい夏の暑さを乗り切るための祈祷や神事が行われ、夕方から夜にかけては氏子地域(鳥生・立花・祇園町周辺)の家族連れや子どもたちで境内がいっぱいに賑わいます。貞観11年(869年)から1150年以上も途切れることなく続いてきた「疫病鎮護の祈り」が、現代の夏祭りの笑顔のなかにしっかりと息づいています。
驚くほど広い!鳥生の三嶋・祇園神社が守護する「氏神地域」と歴史的ネットワーク
境内の規模だけを見ると、住宅街のなかに佇む落ち着いた神社に見えますが、実はこの三嶋神社・祇園神社が氏神として守護しているエリア(氏子区域)は、今治市内のなかでも驚くほど広範囲に及んでいます。
愛媛県神社庁の記録によると、当社の氏神地域は以下の町々を網羅しています。
- 鳥生・祇園エリア:祇園町、北鳥生町、南鳥生町、東鳥生町
- 立花・高下・横田エリア:北高下町、南高下町、土橋町、横田町、衣干町、広紹寺町
- 国分・桜井・唐子台・喜田村エリア:唐子台、喜田村、国分、古国分、東村、拝志、桜井団地1丁目・2丁目、桜井1丁目・2丁目(※桜井1・2丁目は綱敷天満神社と重複)
今治の地理に詳しい方なら、このリストを見て「えっ、鳥生や立花だけでなく、伊予国分寺がある国分や、唐子台、喜田村、桜井の方まで入っているの!?」と驚かれるはずです。
なぜこれほど広い範囲がこの神社と結びついているのでしょうか。それは古代において、国分(伊予国分寺)や桜井・拝志・喜田村といった一帯が、小千直益躬(越智氏)の本拠地であった古代越智郡の中枢エリアと重なっており、「木の下の浜(鳥生の浜)」に凱旋して祀られたこの三嶋神社が、今治平野南東部の海と陸を結ぶ信仰の要(かなめ)であった名残とも考えられます。現在、これらのお町にお住まいの方や、新しく引っ越してこられた方にとっては、まさに自分たちの土地と暮らしを直接見守ってくださっている「産土神(うぶすながみ)・氏神様」にあたりますので、節目の参拝にはぜひ訪れておきたい神社です。
参拝前に知っておきたい実用ガイド|アクセス・駐車場・バリアフリー・御朱印マナー
初めて鳥生の三嶋神社・祇園神社へ参拝される方のために、現地の道路事情や駐車場、境内の設備について分かりやすくまとめました。
車・電車・バスでのアクセス方法と周辺ルート
- 所在地:愛媛県今治市祇園町1丁目1-63
- JR今治駅からのアクセス:JR予讃線「今治駅」から車で約8〜10分(約2.8km)。タクシーを利用する場合は「鳥生の祇園神社(または祇園町の三嶋神社)まで」と伝えるとスムーズです。徒歩の場合は今治駅から約35分、または1つ隣の「伊予富田駅」から徒歩約25分〜30分ほどです。
- せとうちバス利用の場合:今治駅からせとうちバスに乗車し、「鳥生」または「立花」方面のバス停から徒歩圏内です。
- お車でのアクセス(高速道路):西瀬戸自動車道(しまなみ海道)「今治IC」から車で約15分、または今治小松自動車道「今治湯ノ浦IC」から車で約18分。県道38号線(今治街道)や蒼社川沿いのルートから祇園町1丁目へ入ります。
駐車場(境内5台)と車椅子・ベビーカーに優しいスロープ設備
神社周辺の祇園町・鳥生エリアは、昔ながらの落ち着いた住宅街となっており、場所によっては道幅がやや狭い生活道路もあります。お車で向かう際はスピードを落とし、歩行者や自転車に十分配慮して進みましょう。
駐車場は境内に約5台分の無料駐車スペースが設けられています(春の大祭や夏の祇園祭、正月三が日などの祭礼時は境内が歩行者天国・行事スペースとなるため、公共交通機関や徒歩での参拝をおすすめします)。
また、現地を訪れて素晴らしいと感じたのが、歴史ある神社でありながら社殿へと上がるためのスロープが整備されている点です。足腰に不安のあるご高齢の方や、車椅子をご利用の方、またお宮参りや七五三でベビーカーを押して訪れるご家族でも、無理なく安心して拝殿前までお参りできるよう温かい配慮がなされています。
御朱印やご祈祷についてのワンポイントアドバイス
境内には社務所がありますが、地域の祭礼や外祭(出張祭典)などで神職(宮司)の方が不在の時間帯もあります。厄除け・交通安全・お宮参り・病気平癒などのご祈祷や、御朱印・お札の授与を希望される場合は、事前に電話(0898-31-1742)でご都合を確認してから伺うのが最も確実で丁寧なマナーです。
あわせて巡りたい!鳥生三嶋神社と深いつながりを持つ今治の歴史スポット3選
鳥生の三嶋神社・祇園神社を参拝したあと、その由緒に登場した歴史の舞台を実際に巡ってみると、今治という街の奥深さが何倍にも広がります。車やレンタサイクルで一緒に回りやすい関連スポットを3つご紹介します。
1. 鳥生の浜・今治海岸(木の下の浜の伝承地)
神社から北東方向へ1.5km〜2kmほど進むと、燧灘(ひうちなだ・瀬戸内海)に面した海岸線に出ます。崇峻天皇2年(589年)、小千直益躬が播磨での鉄人討伐を終えて船団とともに凱旋した「木の下の浜(鳥生の浜)」は、まさにこの鳥生沖から海岸にかけての一帯と伝えられています。穏やかな瀬戸内の海原を眺めながら、1400年前にここにあった榊の大樹と白鳥の群れに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
2. 大山祇神社(今治市大三島町)
鳥生三嶋神社の総本社にあたる、大三島の大山祇神社。しまなみ海道を渡って車で約40〜45分の距離にあります。ここには小千直益躬(越智益躬)が鉄人を討ち取った様子を今に伝える無形民俗文化財「一人角力(ひとりずもう)」などの神事や、国宝・重要文化財の武具甲冑が数多く奉納されています。「鳥生の三嶋神社」と「大三島の大山祇神社」の両方を参拝する「両参り」を行えば、大山積大神とのご縁がより一層深まるはずです。
3. 鴨部神社・伊予国分寺周辺(越智氏ゆかりの史跡群)
小千直益躬(越智益躬)その人を御祭神として祀る今治市玉川町の「鴨部(かもべ)神社」や、当社の氏子地域にも含まれる「伊予国分寺(四国八十八箇所第59番札所)」周辺は、古代伊予国の中心地であった場所です。今治城や吹揚神社(今治城内)とあわせて巡ることで、古代から中世、近世へと続く今治の歴史絵巻が一本の線でつながります。
鳥生の三嶋神社・祇園神社に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 「鳥生(とりう)三嶋神社」と「祇園神社」は別の場所にあるのですか?
A. いいえ、まったく同じ場所(今治市祇園町1丁目1-63)の同じ社殿に鎮座しています。
かつて約500メートル東の「新田字宮の本」にあった三嶋神社(鳥生の宮)が、現在地の祇園神社(旧称・須賀神社)の境内へ遷座・合祀されたため、現在は一つの社殿に三嶋神社(大山積命)と祇園神社(須佐之男命)の二柱が共に祀られています。
Q2. 参拝にかかる所要時間はどれくらいですか?
A. 通常の参拝であれば15分〜30分ほどでゆっくり巡ることができます。
拝殿での参拝に加え、由緒書きの拝読、境内社の「荒神社」「御鉾神社」への参拝、赤レンガの「お札納所」や自然石の歌碑・記念碑の見学まで含めても、20〜30分あれば心ゆくまで境内の空気を味わえます。
Q3. 「継ぎ獅子」を実際に見るにはいつ行けばいいですか?
A. 毎年5月第2日曜日に開催される「春の例大祭(春祭り)」の日に見ることができます。
継ぎ獅子発祥の地である当社の境内で、迫力満点の三継ぎ・四継ぎの立ち芸や、かわいらしい「子供奴」の奉納演舞を間近で見学できます。
まとめ:1400年の神話と「継ぎ獅子」の誇りが息づく今治・鳥生の聖域へ
今回は、愛媛県今治市祇園町に鎮座する「三嶋神社・祇園神社(鳥生の宮)」を実際に歩き、8枚の現地写真とともにその深い歴史と由緒を紐解いてきました。
- 飛鳥時代(589年)、豪族・小千直益躬が靺鞨国の鉄人を討ち取って鳥生の浜へ凱旋し、榊の大樹に鏡をかけて大山積大神を祀った「木の下三島宮」が起源であること。
- その榊の枝に多くの白鳥が巣を作って雛を育てたことから「鳥生(とりう)の宮」と呼ばれ、「鳥生」という地名のルーツになったこと。
- 平安時代(869年・清和天皇の貞観11年)、京都・八坂神社の祇園信仰にならって須佐之男命を祀り、1150年以上にわたり「鳥生の祇園さん」として疫病退散・病気平癒を見守ってきたこと。
- 明治初年、氏子の高山重吉氏が伊勢から持ち帰り奉納した「継ぎ獅子発祥の地」であり、今治の春祭り文化の源流であること。
- 境内には風格ある拝殿だけでなく、霊験あらたかな「荒神社」やレトロな赤レンガの「お札納所」など、見どころが凝縮されていること。
観光ガイドブックの大きな特集ページには載りにくい場所かもしれませんが、こうして自分の足で境内を歩き、由緒板の文字を追い、石碑や社殿の木の肌に触れてみると、今治という街が持つ1400年以上の歴史の層の厚さに圧倒されます。今治市内へお出かけの際や、しまなみ海道・大山祇神社への参拝旅の折には、ぜひ「鳥生の宮・祇園さん」こと三嶋神社・祇園神社へ立ち寄り、穏やかで力強い神様の息吹を感じてみてください。

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