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愛媛県今治市旭町、ハリソン東芝ライティングの裏手にひっそりと鎮座する鴨部神社(かんべじんじゃ)。主祭神は「越智益躬神霊(おちますみしんれい)」――古代伊予の豪族であり、海を越えて襲来した「鉄人(てつじん)」を討ち取ったという伝説の英雄です。この記事では、鴨部神社の由緒・鉄人伝説・地名「鴨部」の謎・墳墓の所在をめぐる考察・参拝情報までを、地元の伝承と古文献をたどりながら徹底的に掘り下げます。

鴨部神社の概要|越智益躬神霊を祀る伊予の古社
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 神社名 | 鴨部神社(かんべじんじゃ) |
| 鎮座地 | 愛媛県今治市旭町5-2-27(東禅寺と向かい合う位置) |
| 主祭神 | 越智益躬神霊(おちますみしんれい) =小千宿禰益躬/小千益躬(おちのますみ) |
| 御神徳 | 開運 |
| 主な祭礼 | 10月16日 例大祭 |
| 由緒(神社庁) | 『伊予越智誌』に「神戸大神 祭神小千宿禰益躬 大同四年鴨部と改める」とある古社 |
| アクセス | JR今治駅から徒歩約16分(約1.2km) |
| 駐車場 | なし(周辺コインパーキング利用) |
| 境内の見どころ | 「越智益躬公墳墓之地」の石碑/鉄人埋葬伝承地/小字「樹ノ本」 |
特筆すべきは、神話の神々ではなく「実在したとされる人物」を主祭神とする人神(ひとがみ)系の神社であること。菅原道真を祀る天満宮のように、功績ある人物を神として祀る信仰形態が、はるか古代の伊予にも存在していたことを示す貴重な例です。

主祭神・越智益躬とは何者か
越智益躬(小千益躬)は、伊予国の豪族・越智氏に伝わる系譜書『予章記(よしょうき)』や、軍記物『予陽河野盛衰記(別名:予陽盛衰記・河野軍記)』に登場する人物です。越智氏は後の河野氏の祖にあたる一族で、瀬戸内海の水運を掌握した海の豪族として知られます。
伝承では、益躬は文武両道に秀でた人物で、朝廷から異国の武将「鉄人」討伐の勅命を受け、これを果たしたことで伊予国越智郡の大領(郡の長官)に任じられたとされます。さらに晩年は仏教に深く帰依し、剃髪はしなかったものの十戒を受け、法名「定真(じょうしん)」を称したと伝わります。
つまり益躬という人物像は、「武人」「朝廷への忠臣」「篤い仏教信者」「神に祈る祭祀者」という四つの顔を併せ持っています。この多面性こそが、後述する「神社と寺院が向かい合う」独特の景観を生み出した原点だと考えられます。
鉄人伝説|八千の兵を率いた異国の猛将を討て
鴨部神社の創建を語るうえで避けて通れないのが、向かいの東禅寺の創建伝説にも登場する「鉄人伝説」です。物語の流れを追ってみましょう。
① 三韓からの襲来
推古天皇の御代(一説)、朝鮮半島の三韓――新羅・百済・高句麗――に「鉄人」と名乗る武将がいました。卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備え、その名を聞くだけで人々が震え上がるほどの存在。この鉄人が八千人もの靺鞨(まっかつ)の兵を率いて海を越え、筑紫国(現在の九州)から侵攻を開始します。
日本側も必死に応戦し、ようやく包囲したかと思えば、鉄人は「風雨の術」という神秘の力で戦場に暴風と豪雨を巻き起こし、包囲網をあざ笑うように突破。倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで広まり、老人・女性・子どもは山林に身を潜め、日夜命の危険と隣り合わせの生活を送ったといいます。
② 三島大明神の御神託
鉄人が都(京)へ攻め上がろうとしていることが明らかになり、朝廷は国家の命運を益躬に託します。勅命を受けた益躬は、一族の守護神三嶋大明神(大山積神・大山祇神)に七日七夜の祈願を捧げました。すると神託が下ります。
「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠し持ち、鉄人の隙を見て討て」
③ 降伏という決断、そして明石・蟹坂の稲妻
実際に対峙した鉄人の強さは予想以上でした。正攻法では勝てないと判断した益躬は、あえて降伏し、鉄人の家来となって内側から隙をうかがうという大胆な策に出ます。しかし用心深い鉄人に隙はなく、見つけた弱点はただ一つ――「馬上にあるとき、足の裏にわずかな穴が開いている」ことだけでした。
軍は進み、播磨国・明石の蟹坂(かにさか)に到達。その日、鉄人は眼前に広がる壮大な景色に心を奪われ、警戒を忘れて無防備に立ち尽くしていました。そこへ突然の雷鳴。空を裂く稲妻が辺りを照らします。「これぞ三島大明神の霊験」と確信した益躬は懐の鏃を取り出し、渾身の力で投げつけました。鏃は風を切って飛び、唯一の弱点である足裏の穴に突き刺さります。激痛に鉄人は落馬。その瞬間、益躬の家来たちが一斉に斬りかかり、ついに鉄人を討ち取ったのです。
大将を失った軍は脆く崩れ、逃げる者は生け捕りに。命乞いする者は獄舎につなぎ、鉄人に関する詳細を吐かせました。益躬は首級を手に宮中へ参上し、朝廷はこれを大いに喜んで、彼を伊予国越智郡の大領に任じたと伝わります。

益躬が残した社寺|伊予から明石まで広がる信仰の痕跡
戦いのあと、益躬は三島大明神への感謝と戦死した兵たちの鎮魂を胸に、各地へ信仰の証を残しました。彼を由緒とする社寺は愛媛県内に多く、さらに決戦の地・明石にも及びます。
| 社寺名 | 所在 | 益躬との関わり |
|---|---|---|
| 鴨部神社 | 今治市旭町 | 益躬自身を「鴨部大神」として祀る/鉄人の埋葬地とも |
| 東禅寺 | 今治市旭町 | 戦死した兵の霊を慰めるため益躬が建立。のちに河野氏の菩提寺 |
| 稲爪神社 | 兵庫県明石市大蔵本町 | 三島大明神が稲妻となって降りた地に勧請。旧称「稲妻大明神」が転じて「稲爪」 |
| 穂蓼八幡神社 | 兵庫県明石市 | 後世、益躬を祀って建立されたと伝わる |
| 三嶋神社・祇園神社 | 今治市 | 榊の大樹に鏡を懸けて創建した「木の下三島宮」が起源 |
| 高縄神社 | 松山市 | 高縄山の天神森に社殿を造営し大山積神を勧請したと伝わる |
とくに「木の下三島宮(きのもとみしまぐう)」の創建譚は象徴的です。榊は「境の木」とも書かれ、神と人の世界をつなぐ神聖な木。神霊を迎える依代(よりしろ)として、大樹の枝に鏡を懸けてそのふもとに社を建てた――という祭祀の原型が、そのまま語り継がれているのです。
【独自考察】ここで注目したいのは、「樹下=きのもと」というキーワードが伝承の複数箇所に反復して現れる点です。木の下三島宮の「木の下」、鉄人を埋葬したという府中の「樹下」、鴨部神社周辺に残る小字「樹ノ本」、そして朝倉の「樹之本古墳」。これは偶然ではなく、「大樹の下=神霊が降り、死者を送る境界の場」という古代の聖地観が地名として化石化したものと読むべきでしょう。地名は、文献よりも長く記憶を保つ最古の史料なのです。

「往生伝」的な最期と、神格化への道
英雄となった益躬は、その後も変わらぬ誠心で朝廷に仕えました。日々の暮らしでは仏教への信仰を深め、毎朝は法華経を読み、夜は念仏を唱えることを生涯欠かさなかったと伝わります。向かいの東禅寺で、彼自身が仏前に端座し、鉄人との戦いで散った兵たちの冥福を静かに祈っていたのかもしれません。
西方に向かい、定印を結んで
仏教では、西方に阿弥陀如来の極楽浄土があるとされ、臨終にその方角を向いて念仏を唱えるのは安らかな往生を願う作法です。益躬はその教えのままに西を向いて坐し、定印(じょういん)を結んで念仏を唱えながら、痛みも迷いもなく穏やかに息を引き取ったと伝えられます。
その瞬間、村人たちは空から不思議な音楽が響くのを聞き、言葉に尽くせない芳香が村全体に満ちたといいます。人々は驚きとともに深く感動し、涙を流してその往生を讃えました。
【独自考察】この「天楽・異香・端坐合掌」という三点セットは、平安期の『日本往生極楽記』などの往生伝に見られる典型的な「往生の瑞相」モチーフです。つまり益躬伝承は、古代の武勇譚(鉄人退治)に、中世的な浄土信仰の語り口が重ね書きされた「重層テキスト」だと考えられます。武勇伝説の層と、往生伝説の層。その二枚重ねが、神社(鴨部神社)と寺院(東禅寺)が道を挟んで向かい合う現在の景観に、そのまま対応しているのが実に興味深いところです。
「鴨部大神」の尊号と社殿の創建
益躬の逝去はすぐに朝廷へ届きました。やがてその比類なき武勲と忠誠が認められ、文武天皇(在位697〜707年)より「鴨部大神(かんべおおかみ)」の尊号が贈られ、神格化されます。これを受けて地元の人々は、益躬が建立した東禅寺の近くに鴨部大神を祀る社殿を設けました。これが鴨部神社のはじまりです。
「神戸」から「鴨部」へ|地名変更が語る神社の格
「鴨部(かんべ)」という地名は、もともと「神戸(かんべ)」だったとされます。愛媛県神社庁が引く『伊予越智誌』、また『伊予郡誌』には次のような記述があります。
「神戸大神 祭神小千宿禰益躬 大同四年(809年)部と改む」
つまり益躬は当初「神戸大神」の称号で神戸神社に祀られ、平安初期の大同4年(809年)に表記が改められて現在の「鴨部」になった、と読めます。
| 時期 | 表記・呼称 | 意味・背景 |
|---|---|---|
| 文武朝(7〜8世紀初) | 神戸大神 | 益躬に尊号が贈られ神格化。「神戸」は神社に付属する民戸を指す語 |
| 大同4年(809年) | 鴨部へ改称 | 好字二字化・地名整理の潮流のなかで表記が変更 |
| 現在 | 鴨部神社/小字「樹ノ本」 | 旧地名の記憶が小字として残存 |
【独自考察】ここは非常に重要です。「神戸(かんべ/じんこ)」とは、律令制下で特定の神社に租税や労役を納めるために設定された民戸を指す制度用語です。地名として「神戸」が定着していたということは、この社が単なる村社ではなく、公的に神戸を配される格式を備えた神社だった可能性を示唆します。さらに大同年間という改称時期は、律令国家が地名を好字二字に整えていく政策期と符合します。伝説の衣をまとった由緒書きの内側に、こうして律令行政の実務の痕跡が透けて見えるのです。伝承は「作り話」ではなく、制度史の断片を包み込んだ容器と見るべきでしょう。

宿敵と眠る英雄|鉄人埋葬伝承と「越智益躬公墳墓之地」
鴨部神社の境内には、「越智益躬公墳墓之地」と刻まれた石碑が建っています。神社の主祭神の伝承を今に伝える碑で、今治市の歴史・文化を語るうえで重要な意味を持ちます。
一方、この場所にはもう一つの伝承が重なります。『予陽河野盛衰記』には、益躬が大将の鉄人を討ち取り、その屍を伊予へ持ち帰って府中の「樹下(きのもと)」に埋葬したと記されているのです。この「樹下」こそ鴨部神社の地を指すとされ、周辺に残る小字「樹ノ本」がその傍証とされてきました。
もしこの記述が事実であれば、かつて生死を賭けて戦った敵と味方の双方が、時を超えて同じ場所に葬られていることになります。討った者を神として祀り、討たれた者もまた同じ地に葬る――そこには、勝敗を超えて死者を等しく鎮めようとする、この時代の死生観が映し出されているのかもしれません。
【独自考察】民俗学的に見れば、これは「御霊(ごりょう)信仰」の典型的な構造です。強大な敵の遺体を自領内に留め、聖域として管理することで、その荒々しい力を土地の守護力へ転換する。鉄人という「外部からの脅威」を境内に封じ込め、益躬という「内部の英雄」を上位に重ねる。鴨部神社は、敵味方の霊を一つの場で統合する「鎮魂のプラットフォーム」として機能してきたと解釈できます。ただし現在の境内に実際の墳丘や埋葬遺構が確認されているわけではなく、あくまで伝承として受け止めるのが適切です。
創建地は海だった?白鳳地震という決定的な変数
ここで、墳墓の所在に大きな疑問符を投げかける説を紹介します。「鴨部神社が創建されたとされる時代、この一帯はまだ海だった可能性がある」という指摘です。
鍵となるのが、天武13年(684年)10月14日に発生した白鳳地震(南海トラフ巨大地震)。震源域は四国から近畿におよび、広範囲に激しい揺れをもたらしました。山は崩れ、津波が村々を呑み込んだと記録されています。
| 史料 | 記述内容 | 示すこと |
|---|---|---|
| 『日本書紀』 | 「土佐国の田苑五十余万頃、没して海となる」 | 高知沿岸で広大な沈降が発生 |
| 『日本書紀』 | 舒明天皇行幸(639年)/斉明天皇行幸(661年)/684年に湯が止まる | 道後温泉の湧出が地震で一時停止=地殻変動の証拠 |
| 『五社鎮座傳記』(甲把瑞益・江戸期) | 白鳳地震の記憶を引用 | 災害の記憶が近世まで郷土史に継承 |
| 地形考察 | 今治沿岸・府中平野で隆起が起きた可能性 | 遠浅の海→干潟・砂地→陸地化 |
重要なのは、白鳳地震の影響が沈降だけでなく隆起としても現れたと考えられる点です。今治沿岸、とくに府中平野では隆起が起こり、それまで遠浅の海だった場所が干潟や砂地へ変わり、やがて陸地化していったと伝えられます。
そして益躬が没したと伝わる頃は、舒明天皇と皇后が道後温泉へ行幸していた時代――つまり温泉がまだ通常どおり湧出していた、地震より前の時期にあたります。ここから導かれる推論はこうです。
鴨部神社の社殿が建つ場所、少なくとも益躬が埋葬されたとされる場所は、当時まだ陸地ではなく、海あるいは海辺に近い場所だった可能性がある。そして白鳳地震による隆起で周辺が陸地化したのち、祭礼の場が現在地へ移されたのではないか。
【独自考察】この説の面白さは、「神社の移動」という現象を地質学的イベントで説明しようとする点にあります。日本各地の古社には「元宮」「旧社地」の伝承が残りますが、その多くは災害・水害・土地開発による遷座です。もし鴨部神社が白鳳地震後の陸地化を受けて現在地に定着したのなら、この社は「南海トラフ巨大地震の生き証人」とも言える存在になります。石碑が示す「墳墓之地」は物理的な墓所ではなく、移された祭祀の中心=記憶の座標だった、という読みが成り立つのです。

もう一つの候補地|朝倉「樹之本古墳」という巨大な傍証
では、益躬は実際どこに埋葬されたのか。有力候補として挙げられるのが、同じく「樹本(きのもと)」の名を持つ朝倉地区に残る古代の墓所――樹之本古墳(きのもとこふん)です。
樹之本古墳は巨大な円墳で、朝倉地区に現存する300基以上ともいわれる古墳群のなかでも最古級かつ最大級。築造時期は古墳時代中期、およそ5世紀頃と推定されています。ヤマト王権が全国へ勢力を拡大し始めた時代に、すでにこの地には巨大古墳を築くほどの強力な豪族勢力が存在していたことになります。
巨大な墳丘の築造には、膨大な労働力・高度な土木技術・地域を統率する支配力が不可欠です。ゆえに被葬者は単なる地方豪族ではなく、瀬戸内海航路を掌握して広い勢力圏を築いた有力支配者だった可能性が高いと考えられています。
東京国立博物館が収蔵する出土品
樹之本古墳の重要性が世に知られたきっかけは明治41〜42年(1908〜1909年)の発掘調査です。貴重な遺物が次々と姿を現し、その一部は東京・上野の東京国立博物館に収蔵されています。
| 出土品 | 規模・年代 | 歴史的意義 |
|---|---|---|
| 細線式獣帯鏡 | 直径23.6cm/中国製・3世紀頃 | 被葬者が大和王権と密接に結び、大陸外交ルートに関与した一級の権力者であった証拠 |
| 獣帯画像漢式青銅鏡 | 直径24cm/漢代技法 | 「王」の権威を象徴する最高級の副葬品 |
| 青銅製の刀身・槍身 | 古墳中期 | 首長が軍事的指導力も兼備していたことを示す |
| 埴輪群 | 古墳中期 | 被葬者の権威を視覚的に示す最高級の祭祀用具 |
| 銅製 薬師如来像 | 年代整合が最大の謎 | 仏教公伝(538/552年)以前の層から仏像?=日本仏教史を揺るがす異例の発見 |
薬師如来像という「時代錯誤」
樹之本古墳をさらに特別にしているのが、銅製の薬師如来像の出土です。通常、日本への仏教伝来は6世紀中頃(538年または552年)、薬師如来信仰が定着するのは7世紀初頭以降とされます。現存最古級の像は飛鳥時代の遺品に見られ、代表例は奈良・薬師寺の本尊像(7世紀末〜8世紀初頭)です。
ところが樹之本古墳の築造は5世紀中頃〜後半と推定されています。もしこの薬師如来像が古墳築造と同時期の奉納なら、仏教の公式伝来以前にこの地へ仏教的思想が入り込んでいた可能性が浮上するのです。加えて、益躬が生前から仏教を深く信じていたという伝承をふまえれば、この像の出土は、そうした信仰がこの地に根ざしていたことを示す有力な傍証のひとつとなり得ます。
【独自考察】もっとも冷静に見れば、可能性は複数あります。①後世(飛鳥〜奈良期)の追葬・追納である/②明治の発掘記録における出土層位の混同である/③古墳が長期にわたり信仰の場として再利用され、後代の人々が仏像を納めた――いずれも十分あり得ます。むしろ③は極めて重要で、古墳が「先祖の聖地」として中世まで祈りの場として生き続けたことを示す証拠になります。だとすれば、益躬伝説が「樹之本」に紐づいて語られる理由も見えてきます。人々は目の前にある巨大な墳丘に、自分たちが誇る英雄の名を後から与えたのではないか。伝説は、しばしば遺跡という「実物」に引き寄せられて生成されるものなのです。
瀬戸内海という「古代の国際航路」から読み解く
瀬戸内海は、古代日本における国際航路でした。海を通じて中国や朝鮮半島から最先端の文化・技術・思想が流れ込み、人と物と情報が絶えず往来していました。朝倉の300基超の古墳群と大陸製の大型青銅鏡は、この地が単なる地方集落ではなく、「海を通じて世界とつながる先進地域」だったことを物語ります。
【独自考察】この視点に立つと、鉄人伝説の意味も変わってきます。「三韓から鉄人が来襲した」という物語は、単なる荒唐無稽な怪異譚ではなく、大陸との緊密な交渉のなかで生じた実際の緊張・衝突・交易摩擦の記憶が、英雄譚として結晶したものと読めます。
- 「鉄人」という呼称――鉄製甲冑や優れた製鉄技術を持つ渡来系集団の記憶か。鉄は当時の最先端軍事技術であり、「鉄の人」は圧倒的な武力の比喩として自然です。
- 「風雨の術」――瀬戸内・玄界灘の気象を熟知した航海技術者への畏怖の表現とも読めます。海を知る者は、風雨を操る者に見えたはずです。
- 「足裏の弱点」――馬上の武人の唯一の防御死角。アキレス腱やジークフリートの背中と同じ、世界的に普遍の「不死身の英雄の一点」モチーフです。
- 「靺鞨」の登場――中国東北部の民族名が伊予の伝承に現れる事実自体が、大陸情報が瀬戸内に到達していた証拠と言えます。
つまり鉄人伝説は、「海の民・越智氏が、海を越えてくる強大な外部勢力と対峙し、これを制した」という集団的記憶を、神託と英雄の物語に翻訳した装置だと考えられます。そしてその記憶を制度的に固定したのが、鴨部神社という祭祀の場だったのです。

参拝ガイド|アクセス・所要時間・巡り方モデルコース
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 住所 | 愛媛県今治市旭町5-2-27 |
| 電車 | JR予讃線今治駅より徒歩約16分(約1.2km・平坦な市街地) |
| 目印 | ハリソン東芝ライティングの裏側/東禅寺の向かい |
| 車 | 今治小松自動車道 今治湯ノ浦ICから約20分。境内駐車場なし(周辺コインパーキング推奨) |
| 参拝所要 | 約10〜15分(石碑・社殿・周辺の小字を確認するなら20分) |
| 例大祭 | 10月16日 |
| 御神徳 | 開運(勝負運・道を切り開く力を願う人に) |
| おすすめ時間帯 | 午前中(順光で社殿・石碑が撮影しやすい) |
半日で巡る「越智益躬ゆかりの地」モデルコース
| 順 | スポット | 見どころ |
|---|---|---|
| 1 | 鴨部神社 | 越智益躬神霊/「越智益躬公墳墓之地」碑/鉄人埋葬伝承 |
| 2 | 東禅寺 | 益躬が戦死者供養に建立。のちの河野氏菩提寺。神社の真向かい=徒歩0分 |
| 3 | 三嶋神社・祇園神社 | 「木の下三島宮」を起源とする大山積大神の社 |
| 4 | 樹之本古墳(朝倉) | 5世紀の最大級円墳。もう一つの「墳墓候補地」 |
| 5 | 今治市街 | 今治城・今治タオル関連施設などとあわせて |
参拝時のマナーとして、鴨部神社は市街地の氏神さまであり、境内は地域の生活空間と接しています。駐車場がないため路上駐車は避け、住宅への配慮を忘れずに。石碑の周辺は静かに手を合わせ、写真を撮る際も長時間の占有は控えるのが望ましいでしょう。
総括|鴨部神社は「三つの層」が重なる稀有な聖域
ここまで見てきた内容を、独自の視点で整理します。鴨部神社という場所は、次の三層が同一地点で重なっているという点で、日本の神社のなかでも極めて興味深い存在です。
| 層 | 内容 | 意味するもの |
|---|---|---|
| 神話・伝説層 | 鉄人退治/三島大明神の神託/稲妻の霊験 | 海の民・越智氏の対外的記憶と、氏族守護神への信仰 |
| 仏教・往生層 | 法名「定真」/法華経と念仏/天楽と異香の往生 | 神仏習合。神社と寺が向かい合う景観の起源 |
| 制度・地質層 | 「神戸大神」の尊号/大同4年の改称/白鳳地震と隆起 | 律令行政の痕跡と、南海トラフ地震による土地の変容 |
境内の石碑が示す「越智益躬公墳墓之地」に、本当に墳墓が存在したのか。それとも人々の畏怖と敬愛から生まれた象徴的な聖地だったのか。朝倉の樹之本古墳の被葬者像はオチノマスミの姿とどこか重なり合いますが、確定的な証拠があるとは言えず、真相は今も歴史の闇のなかにあります。
それでも――いや、だからこそ。この二つの「樹ノ本」には、それぞれ異なるかたちで、益躬の伝説と謎に包まれた歴史のロマンが、今も確かに息づいています。今治駅から徒歩16分。派手な観光地ではありませんが、そこには千三百年を越えて語り継がれてきた記憶の座標があります。
よくある質問(FAQ)
Q1. 鴨部神社の読み方は?
A. 「かんべじんじゃ」です。「かもべ」ではありません。もともと「神戸(かんべ)」だった地名の読みがそのまま残ったためで、この読みこそが由緒を証明しています。
Q2. 主祭神の「越智益躬神霊」とはどういう意味?
A. 実在したとされる古代伊予の豪族・越智益躬(小千益躬)の御霊そのものを神として祀る、という意味です。文武天皇より「鴨部大神」の尊号を賜って神格化されたと伝わります。
Q3. 御朱印はいただけますか?
A. 常時社務所が開いている神社ではないため、確実にいただけるとは限りません。事前に愛媛県神社庁または宮司様へ問い合わせるのが確実です(愛媛県神社庁記載の連絡先:0898-22-0369)。
Q4. 東禅寺とセットで参拝すべき?
A. ぜひセットで。東禅寺は益躬が戦死者供養のために建立したと伝わる寺で、鴨部神社の真向かい。「神として祀られた場所」と「彼が祈った場所」が道を挟んで向き合うという構図そのものが、この地最大の見どころです。
Q5. 稲爪神社(明石)との関係は?
A. 鉄人を討った決戦の地・明石に、三島大明神が稲妻となって降りた御神恩を伝えるため益躬が勧請したのが起源とされます。旧称「稲妻大明神」が転じて「稲爪」に。伊予と播磨、二つの土地が一つの伝説で結ばれている点が興味深いところです。
Q6. 鉄人伝説はいつの時代の話?
A. 『予章記』系の伝承では推古天皇の御代とされる一方、益躬の神格化は文武天皇(697〜707年)、地名改称は大同4年(809年)。年代に幅があり、複数の時代の記憶が一人の人物像に集約されていると考えるのが妥当でしょう。系譜書に登場する「益躬」は、8世紀初頭に伊予大領を務めた人物としても記録されており、同名・同族の複数世代が重ねられた可能性もあります。
Q7. 何をお願いするとよい?
A. 御神徳は「開運」。圧倒的に不利な状況で策を練り、忍耐して機を待ち、一撃で道を開いた英雄です。逆境の打開・勝負運・勝機を待つ胆力を願う参拝者に、とりわけふさわしい社と言えるでしょう。
主な参考文献・出典
- 愛媛県神社庁「鴨部神社」項(主祭神・例大祭・由緒)
- 『予章記』(越智氏系譜書)
- 『予陽河野盛衰記』(別名『予陽盛衰記』『河野軍記』)
- 『伊予白鳳地震、道後温泉の記事)
- 『五社鎮座傳記』甲把瑞益(江戸期郷土史)
- 樹之本古墳 明治41〜42年発掘調査記




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