拝志城跡の西方寺|河野氏、福島正則、今治の地域史を伝える寺

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愛媛県今治市東村、ショッピングセンター「ワールドプラザ」に隣接する不遠山 西方寺(ふおんざん さいほうじ)は、南北朝時代の律宗寺院「普拝山西福寺」を起源とし、福島正則の時代に寺号と宗派を改めて現在地へ移った浄土宗の寺院です。境内には廃城となった拝志城の記憶が残り、昭和25年には若葉保育園がこの地で生まれました。今治の中世から現代までが一本の線でつながる、知られざる古刹をたどります。

今治市東村にある浄土宗寺院・不遠山西方寺の本堂と山門
今治市東村に建つ不遠山西方寺。江戸時代初期に朝倉・野々瀬から移転した

西方寺(今治市東村)の基本情報

寺院名不遠山 西方寺(さいほうじ)
宗派浄土宗(旧・律宗)
本尊阿弥陀如来
前身寺院普拝山 西福寺(朝倉・野々瀬)
所在地〒799-1506 愛媛県今治市東村1丁目15番36号
ゆかりの史跡拝志城跡(現・ワールドプラザ一帯)
関連施設社会福祉法人 若葉保育園(昭和25年 境内にて創立)
寺院データは浄土宗公式サイトの寺院検索(寺院番号41-007)による

戦乱を越えて受け継がれた信仰

西方寺は、長い歴史のなかで幾度もその姿を変えてきた寺院です。かつて朝倉地区・野々瀬にあった「普拝山西福寺」を起源とし、武士や領主、そして地域の人々の暮らしと深く結びつきながら信仰を受け継いできました。戦乱や時代の移り変わりに翻弄されながらも、西方寺は再び立ち上がり、新たな拠点を得て現代へとつながる歩みを重ねています。

武士家系から仏門へ ― 松若丸と浄蓮律師

西方寺の歴史は、伊予国を統治していた河野氏の一族で笠松城主であった岡武蔵守光信(河野重次郎)公の六男・松若丸が仏門に入ったことに始まります。松若丸は幼少のころより仏教に深い関心を抱き、朝倉の高僧・宥開学上人(ゆうかいがくしょうにん)に師事しました。

宥開学上人は、河野氏が朝倉郷中村(現在の今治市本郷)に祈願寺として創建した「法隆山本道寺」の僧侶として教えを広めた人物です。暦応三年(1340年)、光信公は笠松山の麓・行司原城に在城して領内の平和と繁栄を祈願し、本道寺の諸堂を整備。さらに貞治年間(1362年頃)には真言密法を授かり、これを機に寺号を「正禅寺」から現在の「正善寺」へと改めたと伝えられています。西方寺の源流は、河野氏の信仰とその一族の修行の系譜のなかに脈々と受け継がれているといえます。

修行を終えた松若丸は「浄蓮律師(じょうれんりっし)」の名を授かり、朝倉村野々瀬の地に律宗寺院を創建しました。これが西方寺の前身「普拝山西福寺」です。西福寺は厳しい戒律に基づく僧侶の修行道場として機能する一方、地域の人々からも厚い信仰を集め、やがて宗教的な中心地として確かな地位を築いていきました。

西福寺の礎を築いた弟子・円祐と阿弥陀如来

浄蓮律師には、円祐(えんゆう)という優れた弟子がいました。円祐は朝倉村の白地城(南越山城)城主・日浅阿波守の次男として生まれ、若くして西福寺に出家。師の没後は後継者として約20年にわたり住持を務め、この期間に寺院の制度と信仰の体制が整えられていきます。院号を「西方院」、坊号を「東光坊」と定め、本尊として阿弥陀如来を安置するなど、のちの浄土信仰につながる基盤がこの時期に築かれました。

寺で毎日撞かれる鐘の音は近隣の笠松城にまで響き渡り、地域の人々には暮らしの時間を告げる合図として欠かせない存在となっていました。この深い結びつきのなかで、河野氏からは永代寺領として100石が寄進され、毎月の灯明銭として3貫文が支給されるなど、経済的にも安定した基盤が整えられていきます。

西方寺境内の様子と拝志城最後の城主・堀部主膳の供養塔
静かな境内。拝志城最後の城主・堀部主膳の供養塔も残されている

四国攻めと河野氏の滅亡 ― 西福寺に迫る戦乱

しかし、この安定は永遠には続きませんでした。天正13年(1585年)、天下統一を目指す羽柴秀吉は四国平定のため大軍勢を伊予国へ差し向けます。伊予方面軍を率いたのは小早川隆景。数万の兵が河野氏の本拠・湯築城(現・道後公園)を包囲し、籠城して抵抗した河野氏も約1カ月後に降伏勧告を受け入れ開城しました。これにより河野氏は滅亡し、伊予国を統治してきた長い歴史に終止符が打たれます。庇護者を失った西福寺も、存続が危ぶまれる状況に置かれました。

福島正則の宗教再編と「不遠山西方寺」の誕生

河野氏に代わって豊臣政権下で伊予の統治を任されたのが、豊臣家の重臣・福島正則です。天正15年(1587年)、湯築城にいた小早川隆景が筑前・筑後へ転封となり、代わって正則が入城しました。ただ湯築城は中世的な構造で戦国後期の軍政や城下町形成には不向きな点が多く、翌天正16年(1588年)には国分山(唐子山)の国分山城へ本拠を移します。この城は南北朝時代にはすでに城塞的施設が存在したと考えられ、戦国期には能島村上氏第五代当主・村上武吉も居城とした、瀬戸内海と伊予内陸部を結ぶ戦略的要衝でした。

福島正則はこの地を拠点に交通網の整備、農地の検地、村落の再編を進める一方で、宗教勢力の統制・再編成にも着手します。西福寺もその例外ではなく、ここで大きな転機を迎えました。岡武蔵守光信の末裔・彦太郎が正則から200石を与えられたことをきっかけに、西福寺は寺号を「不遠山西方寺」へと改め、宗派を律宗から浄土宗へ転じ、阿弥陀如来を本尊として安置したうえで、現在の今治市東村へ移転することになったのです。

拝志城の跡地に根づく西方寺

実は、移転先の地にはかつて拝志城(はいしじょう)という城が築かれていました。関ヶ原の戦い(1600年)で東軍が勝利すると、徳川幕府のもとで各地の領地再編が進み、伊予国では藤堂高虎(宇和島城主)と加藤嘉明(松前城主)が領地を分割。今治の府中平野には両家の所領が混在することになります。

やがて藤堂高虎は来島海峡を一望できる沿岸部に今治城を築き、養子の藤堂高吉を城代に据えました。一方の加藤嘉明は藤堂家を牽制するため今治の拝志郷に拝志城を築き、弟の加藤忠明を城代に任命。こうして今治の地には今治城と拝志城が対峙する緊張状態が生まれました。

しかしこの状態は長くは続きません。元和元年(1615年)の一国一城令により拝志城も廃城が決定され、管理・維持体制は解体、戦略的価値を失った城は町奉行の管理下に置かれます。寛永12年(1635年)に拝志が今治藩領となり、その5年後には今治城下の港湾整備にともなう石垣補修のため、拝志城は取り壊されて石材が再利用されました。かつての城跡と城下町が姿を変えていくなかで、西方寺はこの地に移転・建立され、新たな歴史を刻み始めたのです。

今に残る拝志城の記録

拝志城の遺構は、現在もいくつかの場所に残されています。城跡にはかつて田窪工業所の工場が建っていましたが、現在はショッピングセンター「ワールドプラザ」が建設されています。この敷地内には拝志城の一部が含まれており、とくに海側には城の防御施設であった堀を転用したと思われる水路が現存し、当時の面影をとどめています。西方寺の境内にもその名残が見られ、最後の城主である堀部主膳の供養塔が建てられ、拝志城の歴史を今に伝えています。

「若葉保育園」発祥の地 ― 西方寺の仏教保育

江戸時代、律宗から浄土宗へと宗派を改め、阿弥陀如来を本尊とする信仰の場として歩みを続けてきた西方寺は、時代とともにその役割を変化させながら、地域社会に深く根ざしてきました。そうした取り組みの一つが、昭和25年(1950年)に境内に設立された「若葉保育園」です。

若葉保育園は、単に幼児の預かり保育を行う場ではなく、仏教の教えを基盤とする「仏教保育」を実践する場として誕生しました。仏教保育とは、特定の宗教的儀礼や教義を押しつけるものではなく、仏教の根本にある「慈悲の心」「感謝」「生命尊重」の精神を、子どもたちの日常生活のなかに自然なかたちで育むことを目指すものです。

たとえば、食事の前に「いただきます」と手を合わせる。その一つの所作をとっても、食物やそれを育ててくれた自然、料理をしてくれた人々への感謝を学ぶ時間となります。また、動植物を大切にし、友達に思いやりをもって接することなど、仏教の精神に基づいた人格形成が重視されます。

昭和43年(1968年)には現在の地に新築移転し、昭和50年(1975年)には社会福祉法人としての認可を受け、地域の子どもたちの健やかな成長を支える体制が整えられました。さらに平成12年(2000年)には日本財団の補助事業により新園舎が建設され、最新の設備と安全な環境のなかで子どもたちが安心して成長できる場が提供されています(沿革の詳細は若葉保育園公式サイトを参照)。

こうして若葉保育園は、西方寺の精神を受け継ぎながら、時代の変化に寄り添い、地域とともに歩んできました。これからも、子どもたち一人ひとりの心に仏の教えをやさしく灯しながら、未来を担う人材の育成と地域社会への貢献を静かに、そして力強く果たしていくことでしょう。

西方寺へのアクセスと参拝のポイント

西方寺は今治市東村1丁目、ショッピングセンター「ワールドプラザ」に隣接する住宅地のなかにあります。買い物や今治市街の観光と合わせて立ち寄りやすい立地で、境内では堀部主膳の供養塔や、拝志城の堀を転用したとされる水路の名残を歩いてたどることができます。今治城や朝倉方面の正善寺とあわせて巡ると、河野氏から藤堂・加藤両家へと移り変わる今治の歴史が立体的に見えてきます。なお境内は保育園に隣接するため、参拝の際は静かに、写真撮影にも配慮しましょう。

よくある質問(今治・西方寺)

西方寺の宗派と本尊は?

現在は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来です。創建当初は律宗寺院「普拝山西福寺」でしたが、江戸時代初期に浄土宗へ改宗しました。

なぜ寺号が「西福寺」から「西方寺」に変わったのですか?

岡武蔵守光信の末裔・彦太郎が福島正則から200石を与えられたことをきっかけに、寺号が「不遠山西方寺」へと改められ、あわせて宗派も改宗、現在の東村へ移転しました。

境内に城の遺構があると聞きましたが本当ですか?

西方寺一帯はかつての拝志城の跡地にあたり、境内には最後の城主・堀部主膳の供養塔が残されています。隣接するワールドプラザ敷地の海側には、堀を転用したとみられる水路も現存します。

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